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開国と辞書編纂(蘭語篇)(2026/1/24)
徳川幕府による日蘭貿易が平戸から長崎へ移されたのち、通訳を家業(通詞)とする者が現れた。なかでも、本木良永や志筑忠雄は著作のなかで、地動説を紹介しているという。(『天地二球用法』『暦象新書』) 蘭癖で知られた徳川吉宗はオランダ通詞とは別に、青木昆陽と野呂元丈にオランダ語習得を命じたが、出島の商館長から学ぶだけでは限界があった。『和蘭文字略考』(1746(延享3)年、珍書同好会1917年復刻)などの写本が伝わる。1720(享保5)年から洋書輸入の一部解禁により医学の分野で蘭方医が増え、1774(安永3)年『解体新書』が出版された。(版元:須原屋市兵衛)辞書のない環境での翻訳の苦しみは、杉田玄白『蘭学事始』に詳しい。図版は木版で、秋田蘭画の小田野直武に原図が任された。約50年後には、弟子の大槻玄沢が改訳版を公表した。 1796(寛政8)年には既存の蘭仏辞典を参考に、『波留麻和解』(ゆまに書房1997年復刻)が出版された。オランダ語は活版、日本語は筆写だった。抄訳版の『訳鍵』が1810(文化7)年出版された。1833(天保4)年にはオランダ商館長と蘭学
乙原李成/Otohara Risei
1月24日読了時間: 2分


開国と辞書編纂(英語篇)(2026/1/10)
古くから中国大陸と交流があった日本では、平安時代(昌泰年間)に漢和辞典(字書)『新撰字鏡』がつくられた。安土桃山時代に南蛮貿易が行われると、宣教師による活版印刷で、キリシタン版『日葡辞書』がつくられた。 日英交流は、1600(慶長5)年漂着したオランダ商船にウィリアム・アダムスが居り、徳川幕府の庇護におかれたところから始まる。1608(慶長13)年平戸に商館までできたが、15年後閉鎖されてしまった。 1808(文化5)年イギリス軍艦が長崎に不法侵入した事件をきっかけに、英語習得を命ぜられるオランダ通詞たちがいた。彼らはオランダ商館にいたボロムホフに学び、『諳厄利亜言語和解』(一名、諳厄利亜興学小筌)、『諳厄利亜語林大成』をまとめた。さらに1848(嘉永元)年漂着したマクドナルドから教わった者のうち、森山栄之助は7年後再来日したペリーの通訳をした。 官製の英和/和英として、1862(文久2)年洋書調所が『英和対訳袖珍辞書』出版(開板)、組織改編後の開成所で1866(慶応2)年改正増補版を出した。これは1869(明治2)年に薩摩藩士によって、『和訳英
乙原李成/Otohara Risei
1月10日読了時間: 3分


自費出版さしあげます(2025/12/27)
市川代治著、吉原努訳『日本の文化』(2022年) 三矢藤太郎ほか編、乙原李成独訳『初版翻刻南洲翁遺訓』(2025年) 無償で郵送いたします 希望者は以下のアドレスまでご連絡ください ((a)を@に換えます) talentstepyoshi(a ) yahoo.co.jp
乙原李成/Otohara Risei
2025年12月27日読了時間: 1分


浮世絵流出(2025/12/13)
今年11月22日サザビーズ香港に出品された岡田美術館(箱根)の旧蔵品に、喜多川歌麿の肉筆画があると話題になった。結果として、日本人コレクターの手に落ちたという報道があったが、約11億円という落札金額もまた話題になった。 明治維新をむかえた日本には外交、商売その他さまざまな目的で、日本国籍をもたない「異人」が集まった。そのなかには仕事の必要上、また第二の人生に、あるいは趣味として、日本の伝統文化と関わり続けた人たちがいた。 アーネスト・サトウ(Satow,Ernest Mason,1843-1929)は大英帝国の外交官として来日、いろはから学習して、のち政府高官と渡り合った。そのとき収集した和書の多くが、ケンブリッジ大学図書館に収蔵されている。 東京大学(当時)のお雇い外国人、フェノロサ(Fenollosa, Ernest, 1853-1908)は、のちにボストン美術館東洋部長に就任。そのとき多くの浮世絵コレクションをもたらしたのは、ビゲロー(Bigelow, William Sturgis, 1850-1926)だった。 露店で浮世絵が一束いくら
乙原李成/Otohara Risei
2025年12月12日読了時間: 2分


忘れられた芝書店街(2025/11/29)
2025年9月、世界55か国333都市を紹介するサイトTimeOutが、神田神保町を今もっともクールな街と紹介。 https://www.timeout.com/tokyo/things-to-do/best-restaurants-cafes-shops-and-things-to-do-in-jimbocho 神田神保町は「神田古本まつり」が開催されるなど、古本と喫茶店とカレーを愛する人々から長らく親しまれてきた。本の街になったきっかけは、明治初期に大学南校(現在の東京大学)と商法講習所(現在の一橋大学)が開校したこと。正則と呼ばれた外国語による授業に使うため、学生たちは洋書や辞書を買い求め、卒業するとそれらを売ってしまう。1875(明治8)年出版条例改正による内務省への届出、1883(明治16)年の古物商取締条例が古書店と新刊書店を分離させた。1904(明治37)年東京市電の九段線小川町-九段下間開業は、一層集客につながった。 江戸時代に出版業がさかんだったのは京、大坂、江戸であり、版元が問屋をつくり、仲間内である行司の審査ののち、印刷販売
乙原李成/Otohara Risei
2025年11月29日読了時間: 2分


衆に敵すべからず(藤原銀次郎と大川平三郎)(2025/11/15)
紙といえば王子ホールディングス。日本国内シェア第1位。世界中に200もの拠点をもつ。いまこの時も、巨大なロールにできあがったばかりのさまざまな紙が巻き取られている。 創業者は渋沢栄一(1840-1931)だが、明治末には非効率、罷業のせいで経営難におちいった。慶応義塾卒、三井物産の藤原銀次郎(1869-1960)が1911(明治44)年から経営再建に呼ばれ、専務、社長を務めた。1933(昭和8)年には大川平三郎の(1860-1936)の富士製紙、樺太工業を合併。特殊紙を除く、日本全国のシェアをほぼ独占した。 そもそも大川平三郎も、渋沢栄一の縁故から創業当時の抄紙会社に入社し、職工から副支配人に登りつめた立志伝中の人物。三井財閥に追い出された形で退任すると、樺太を舞台に、王子製紙と工場の建設ラッシュを繰り広げた。「大川の大胆不敵」「大川の神速果敢」(『財界人思想全集 第5)と評されるように、我の強い人物でもあった。一方の藤原は、「人の長所を見て短所を気にしてはいけない」(『財界人思想全集 第4』)と周りに諭す人格者。慶応義塾大学理工学部の前身に当る
乙原李成/Otohara Risei
2025年11月15日読了時間: 2分
近代日本の製紙黎明期-会社系統図(2025/11/1)
大蔵省紙幣司(寮) 1871(明治4)年創設、1875(明治8)年紙幣寮に抄紙局設置、1877(明治10)年紙幣寮を印刷寮と改称、1879(明治12)年まで洋紙製造 抄紙会社 1873(明治6)年渋沢栄一により創業、1874(明治7)年より谷敬三支配人、1893(明治26)年王子製紙と改称、1911(明治44)年三井物産から藤原銀次郎(1869-1960)専務就任、1933(昭和8)年富士製紙、樺太工業と合併 L 有恒社 1872(明治5)年旧広島藩浅野家により東京にて創業、1924(大正13)年王子製紙に吸収合併 L 富士製紙 1887(明治20)年創業、1919(大正8)年大川平三郎社長就任、1933(昭和8)年王子製紙に吸収合併 L 蓬莱社 1871(明治4)年計画の洋法楮製商社をもとに創業、1875(明治8)年大阪にて製紙業務開始、1876(明治9)年真島製紙所と改称、1882(明治15)年大阪製紙株式会社、1906(明治39)年中之島製紙株式会社、1925年(大正14年)富士製紙に吸収合併 L パビール・ファブリック 1873(
乙原李成/Otohara Risei
2025年11月1日読了時間: 3分
近代日本の活版印刷略年表(2025/10/18)
1856(安政 3)年 長崎活字版摺立所、"Syntaxis,of woordvoeging der Nederduitsche taal."(和蘭文典後編成句論)、 "Nederduitsche spraakkunst ten dienste der scholen." (阿蘭陀文法書)複製出版 1858(安政 5)年 蕃書調所、"Leesboak voor de scholen van het nederlandsche leger." (レースブック)複製出版 同年 秋山佐蔵(八王子)金属活字製作、フーフェラント(C. W. Hufeland, 1762-1836)の"Enchiridion medicum."(済生三方)複製出版 1859(安政 6)年 本木昌造(1824-1875)『和英商賈対話集初編』(版元、塩田華八) 出版 1860(万延元)年 本木昌造『蕃語小引』(版元、増永文治・内田作五郎)出版 1862(文久 2)年 洋書調所(蕃書調所から改称)、『英和対訳袖珍辞書』出版 (翌年と1869年に改訂) 1869(明
乙原李成/Otohara Risei
2025年10月18日読了時間: 2分


寺田寅彦が見た丸善(2025/10/4)
寺田寅彦(1878-1935)は理学博士、1903年東京帝国大学理科大学実験物理学科卒業、いまで言う地球物理学を専攻した研究者。 また、吉村冬彦などのペンネームで、文学と自然科学を橋渡しするような随筆を数多く残した。『寺田寅彦随筆集』(岩波文庫)が入手しやすい。...
乙原李成/Otohara Risei
2025年10月4日読了時間: 3分


竹越与三郎著作目録(修正版)(2025/9/20)
竹越与三郎(1865-1950、号三叉)はひとつの場所に留まることができなかったようだ。 明治14(1881)年から慶応義塾に学ぶ前、中村正直の同人社にいたことがある。 就職先は明治16(1883)年10月から明治23(1890)年1月までに、時事新報社、基督教新聞、大阪公論、民友社を渡り歩いた。 民友社では、『国民之友』や『国民新聞』を創刊した徳富蘇峰の下でしばらく働き、明治28(1895)年に離れた。 結局自前のメディア、『世界之日本』(1896年-1899年)を創刊。 晩年の陸奥宗光や西園寺公望をいわばパトロンにして、原稿を集めた。 同時期に代表作の『二千五百年史』(警醒社書店1896年)を公表している。 明治35(1902)年第7回衆議院選挙に新潟県から出馬して当選。立憲政友会に創立時から所属していた。 請願委員長(第21、22、24回帝国議会)、商業会議所法中改正法律案委員長(第21回)、水利組合法案委員長(第24回)。 演説の声質は少し細く、俗にいう黄色いところがあり、左腕を前に、直立する姿が気取った印象を与えたという。...
乙原李成/Otohara Risei
2025年9月20日読了時間: 2分
休止のお知らせ(2024/2/24)
身辺多忙につき当分の間更新を休止します 乙原李成
乙原李成/Otohara Risei
2024年2月24日読了時間: 1分


西郷人気(2024/2/24)
明治22(1889)年大日本帝国憲法発布と同日、西郷隆盛(1828-1877、号南洲)は特旨により、元の正三位に復した。 その直後から顕彰の出版物が続々著されることになった。 明治22(1889)年渡辺朝霞(新聞記者)『維新元勲西郷隆盛君之伝』(文事堂) 明治23(1890)年三矢藤太郎(旧庄内藩士)『南洲翁遺訓』 明治27(1894)年勝田孫弥(旧薩摩藩士)『西郷隆盛伝』全5巻 明治29(1896)年片淵琢(旧佐賀藩士)『西郷南洲先生遺訓』 明治32(1899)年『西郷隆盛』(少年読本第18編)(博文館) 明治43(1910)年伊藤痴遊(講釈師)『西郷南洲』正、続、外編(東亜堂) 『南洲翁遺訓』はいまでも読み継がれる名著のひとつ。 明治から令和にいたるまで、大同小異の書名で50冊以上出版された。 戊辰戦争後の寛大な処置に庄内藩士が感銘し、西郷隆盛の言動、思想を書き残したもの。 「敬天愛人」や「命も要らず、名も要らず、官位も金も要らぬ人」の出典がここにある。 大正15年政教社が出版したのは珍しい1冊で、玄洋社を率いた頭山満(1855-1944)の
乙原李成/Otohara Risei
2024年2月23日読了時間: 2分


立身出世与三郎(2024/2/10)
竹越与三郎(1865-1950、号三叉)は、武蔵国本庄の造り酒屋の家に生まれた。 同人社(中村正直)、慶応義塾(福沢諭吉)に学ぶ。 明治16(1883)年新潟県柏崎、竹越家の養子に入る。 三叉の号は、故郷の川に由来するという。 明治19(1886)年霊南坂教会において受洗。 明治23(1890)年より明治28(1895)年まで『国民新聞』(民友社)記者。 明治29(1896)年より、『世界之日本』(開拓社、1896-1900)主筆。 明治31(1898)年文部省参事官を命じられ、西園寺公望の下で働く。 明治35(1902)年より大正4(1915)年衆議院議員(政友会所属)。 松本君平、望月小太郎とともに、衆議院の三ハイカラと呼ばれた。 大正11(1922)年より貴族院勅選議員(交友倶楽部所属)。 臨時帝室編修局御用掛のひとりとして『明治天皇紀』編纂に関わる。 昭和15(1940)年枢密顧問官。 昭和20(1945)年公職追放。 東京婦人矯風会委員の妻竹代も、一時期『国民新聞』(民友社)記者をしていた。 長男虎之助は星製薬に、次男熊三郎は三菱鉱業に
乙原李成/Otohara Risei
2024年2月9日読了時間: 3分


地理学者としての志賀重昴(『日本風景論』を読む)(2024/2/3)
志賀重昴(1863-1927)は岡崎藩の儒者の家に生まれた。 東京、芝新銭座の攻玉社に学んだあと、明治17(1884)年札幌農学校卒業。 海軍兵学校の遠洋航海に同乗して、太平洋の島国を見聞。 明治21(1888)年杉浦重剛(1855-1924)、三宅雪嶺(1860-1945)らと雑誌『日本人』を創刊。 明治27(1894)年『日本風景論』(政教社)初版。以後版を重ねる。 妻の母校、跡見学園をはじめ、さまざまな教育機関で地理学を教えた。 東京地学協会、日本山岳会、イギリス王立地学協会会員。 『日本風景論』は、改版のたびに表紙挿絵を改めるという凝ったつくりだった。 気候の多様性に伴う植生の多様化。とくに多湿であること。 火山の多さと各地のおもな山々。そして登山の推奨。 日本アルプスが、ウェストン(Walter Weston, 1861-1940)により紹介された業績と、比較されることがある。 急流な河川による土地の浸食。そのような特徴がみられる名所。 そして、日本古来の花鳥風月を愛でる気風を再評価する。 和辻哲郎(1889-1960)『風土』(岩波書
乙原李成/Otohara Risei
2024年2月2日読了時間: 2分


伝記作家としての徳富蘇峰(『吉田松陰』を読む)(2024/1/27)
徳富蘇峰(1863-1957)は熊本藩士の嫡子として、現在の熊本県水俣市に育った。本名、猪一郎。 幼少期から四書五経になじみ、維新に至り熊本洋学校入学、熊本バンドに参加。 明治9(1876)年京都の同志社に移り受洗。その中退後は東京に出て、自由民権運動を目の当たりにした。 明治15(1882)年郷里に戻り私塾を経営、原書から西洋思想を学ぶ。 明治15(1882)年処女作『将来之日本』(経済雑誌社)を、本名で出版。 明治20(1887)年雑誌『国民之友』(民友社)、その3年後に『国民新聞』(国民新聞社)を創刊。 日清戦争を従軍記者として取材、三国干渉に衝撃をうけ外遊。 明治30(1897)年内務省参事官に就任し、それまでの政府批判からの変節を攻撃される。 桂内閣、寺内内閣に関与し、明治44(1911)年貴族院勅撰議員に任ぜられる。 その立場を利用して、弟徳富蘆花からの、大逆事件関係者への減刑嘆願を取り次いだとされる。 大正7(1918)年よりライフワーク、『近世日本国民史』を執筆開始。 織豊期から西南戦争に至る全100巻の通史は、徳富蘇峰の名がギネ
乙原李成/Otohara Risei
2024年1月26日読了時間: 3分
大逆事件の衝撃(2023/12/30)
明治39(1906)年発足の社会民主党は、無政府主義の影響を受けた党員によって、分裂の危機にあったという。 雑誌『社会主義研究』創刊号に「共産党宣言」翻訳全文が掲載、クロポトキン『麺麭(パン)の略取』翻訳出版は同じ年。 さかのぼること、明治8(1875)年公布の新聞紙条例は違反者への禁固刑及び罰金刑を定め、以来多くの逮捕者を出していた。 平民新聞記者の釈放祝いに社会民主党の両派を招いたところ、酒の勢いもあったのだろう、お開きのあとの言動から逮捕者を出した。 法をどのように解釈し、どのように運用するかは為政者のさじ加減だろう。 政友会総裁の西園寺公望が許容していた主義者を、陸軍を中心に広く影響をもつ山縣有朋は取り締まった。 この明治42(1909)年の赤旗事件の翌年、過激派による爆弾製作をきっかけに、予防措置が取られた。 天皇、皇族に「危害ヲ加へ又ハ加へントシタル者ハ死刑」とした旧刑法(明治13年公布、明治15年施行)以来、大逆罪は死をもって償われた。 厳しい運用(一審が最終審)のためか、適用されたのはこのときと、大正15(1926)年の虎ノ門事件
乙原李成/Otohara Risei
2023年12月29日読了時間: 3分
社会主義思想の広まり(2023/12/23)
文明開化とともに西洋の文物が取り入れられると、さまざまな政治思想も伝わった。 明治初期の自由民権運動と、社会主義または無政府主義は、同時並行で知識人の間に広まった。 『明六雑誌』(報知社)第2号(1875年3月)で、加藤弘之が「コムムニスト党」と記したのが、用語の初出とされる。 明治14(1881)年 明治十四年の政変と同年。 『六合雑誌』(六合雑誌社)第7号(1881年4月)に小崎弘道「近世社会黨ノ原因ヲ論ズ」が掲載された。 翌年にはウールセイ(Woolsey, Theodore Dwight, 1801-1889)の『古今社会党沿革説』(弘令社出版局1882年)が翻訳出版。 いずれもマルクスの名前を紹介した初出とされる。(同じ原書を使用したという。) 明治22(1889)年大日本帝国憲法発布、翌年第1回帝国議会開会。 それと同時期に、『萬朝報』記者の斯波貞吉が、『国家的社会論』(富山房1892年)にて文献をひろく紹介。 さらに『国家学会雑誌』(国家学会)第7巻第72号(1893年2月)、第7巻第74号(1893年4月)の2回、...
乙原李成/Otohara Risei
2023年12月22日読了時間: 2分
東京日日新聞をめぐる人々(2023/11/11)
明治5(1872)年2月21日(旧暦)日報社が創刊。早くから鉛活字と西洋紙を使用。創刊の2年後に銀座へ移転した時、すでに8千部を売り上げたという。(『日本新聞発達史』) 戯作者条野伝平(採菊)(1832-1902)、浮世絵師落合芳幾(1833-1904)、貸本業西田伝助(1838-1910)の共同発行。購読料は1部140文、1か月だと銀20目(匁)。その頃あった新聞茶屋では見料2厘プラス茶代5厘、新聞縦覧所では1時間5厘かかったという。(『毎日新聞百年史』) 『太政官日誌』(明治9(1876)年12月廃刊)と『官報』(明治16(1883)年7月2日創刊)のつなぎとして機能。明治政府から月額約1万円の補助金をうけていたという。経営不振により、明治44(1911)年『大阪毎日新聞』に売却された。(『新聞史話』) 以下生年順に紹介。 岸田銀次(吟香)(1833-1905)美作国の百姓の家に生まれる。大坂へ出て、緒方洪庵に学ぶ。幕末の横浜でヘボンと和英辞書を編纂。『海外新聞』『横浜新報もしほ草』を共同発行ののち、1873年日報社入社。自ら販売する目薬の広
乙原李成/Otohara Risei
2023年11月11日読了時間: 3分
新聞小説ことはじめ(2023/11/3)
先に引用した尾崎紅葉『金色夜叉』は、もともと『読売新聞』に連載された新聞小説のひとつだった。 新聞小説にまつわるエピソードでは、東京帝国大学・旧制一高講師を辞職して東京朝日新聞で連載をもった夏目漱石(1867-1916)が有名だろう。 逆にもともと新聞記者から作家・脚本家として一本立ちした、岡本綺堂(1872-1939)のような例もある。 新聞小説がどのように始まったか調べてみると興味深いエピソードを再発見できたので、ここに紹介したい。 すでに検証され、否定されている説だが、明治30(1897)年『早稲田文学』が連載した文学年表の「明治9年11月」の記述が有力だった。 「此の頃『絵入』に「金之助の話」と題し、虚実混合の物を載し好評、これ新聞小説の嚆矢なり」(第1次第2期33号(1897年5月)24ページ) 記者だった野崎左文が、「(絵入新聞)記者の前田夏繁氏が明治11年9月に(中略)「金之助の話」といふ三分の事実に七分の潤色を加へた続き物を載せ始め」と訂正した。 さらに英文学者で日本文学研究者の柳田泉は、以下の通り確認した。 『東京絵入新聞』明治
乙原李成/Otohara Risei
2023年11月2日読了時間: 3分
言文一致に貢献した人々(2023/10/28)
「貫一は力無げに宮の手を執れり。宮は涙に汚れたる男の顔をいと懇(ねんごろ)に拭(ぬぐ)ひたり。 「吁(ああ)、宮(みい)さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。 一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。 来年の今月今夜は、貫一は何処どこでこの月を見るのだか! 再来年(さらいねん)の今月今夜……十年後のちの今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。 来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」 宮は挫(ひし)ぐばかりに貫一に取着きて、物狂(ものぐる)はしう咽入(むせびい)りぬ。」(『金色夜叉』前編第8章) かつて硯友社(けんゆうしゃ)という文学サークルがあった。 尾崎紅葉(1868-1903)や山田美妙(1868-1910)といった学生あがりの文学青年たちが明治2
乙原李成/Otohara Risei
2023年10月27日読了時間: 3分
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