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寺田寅彦が見た丸善(2025/10/4)

  • 乙原李成/Otohara Risei
  • 10月4日
  • 読了時間: 3分

寺田寅彦(1878-1935)は理学博士、1903年東京帝国大学理科大学実験物理学科卒業、いまで言う地球物理学を専攻した研究者。

また、吉村冬彦などのペンネームで、文学と自然科学を橋渡しするような随筆を数多く残した。『寺田寅彦随筆集』(岩波文庫)が入手しやすい。


旧日本橋区通三丁目、1910(明治43)年落成の煉瓦造と、それ以前にあった2階建て日本家屋の丸善本社を、両方知る人物でもある。

開業当時からの日本家屋の店舗は、丸善書店と丸善唐物店が別棟、路地奥に創業家自宅があった。

寺田寅彦は、薄暗い窮屈な学者の私有文庫のような雰囲気を、のちの煉瓦造の建物よりも好んで通ったという。

丸善書店の1階は和書店、洋書、文具店別々の帳場があり、2階洋書でも別に勘定場があったことが社史の図面からわかる。

価格は原本に符牒で書き込まれ、「アンカナ」とあると1円25銭の意味だった。これは1から10までを、五十音のアカサタナに置き換える仕組み。


寺田寅彦が留学中の1909年12月10日早朝、仮営業場の火災により、洋品、文具、和書、洋書の在庫が失われた。

その苦難を乗り越えて、翌年5月本店落成。地上4階建、1階に洋品、文具、和書、2階に洋書をおき、3階事務室があり、4階をストック置場(倉庫)とした。

煉瓦造は決まった様式の設計ではなかったが、出入口の両脇を飾ったのが、新海竹太郎「手長足長」像。(関東大震災による本社倒壊により、現存せず。)

新海竹太郎の代表作に、「ゆあみ」(東京国立近代美術館所蔵)の女性像がある。

社史によると、来店記念に手帳がくばられ、高等大学や大学には福澤諭吉ゆかりの、『ウェブスター』(1909年改訂の New international dictionary か)が寄贈された。


帰国後の寺田寅彦の回想では、明るく天井の高い、デバートメントストアのような印象で、別棟だった洋品部は、他の商人が間借りしている気がしたという。

真っ先にのぞくのはドイツ語の棚で、系統立てて分類されたが、第一次世界大戦中は輸入が途絶し、雑然としていた時期もあった。

英米フランスからの原書を平台(露店式)に並べた一角もあった。一方の壁に哲学、宗教学、心理学の棚。また一方に文学、芸術の棚。

1階の新刊雑誌の多さに、同じような体裁、同じような内容の、表紙をすりかえても分からないものだ、とこき下ろしている。


この本店は関東大震災当日、火災の熱で鉄骨が曲がり、4階ストック置場の重みにより倒壊。神田、横浜の支店も近隣から延焼した。

寺田寅彦が所属した東京帝国大学では、発災直後から被害状況の確認、地震の規模の確定などに取りかかった。(『帝都大震火災系統地図』など)

俗にいう、「天災は忘れた頃にやってくる」という警句は本人の著作(随筆「天災と国防」など)になく、弟子の中谷宇吉郎が広めたものらしい。


参照

『官報』第6009号(明治36年7月14日)、第7583号(明治41年10月3日)、第7725号(明治42年3月30日)

金平糖(寺田寅彦)「丸善と三越」(初出『中央公論』(中央公論社)1920年6月)

『帝都大震火災系統地図』(東京帝国大学罹災者情報局調査、1923年)

吉村冬彦(寺田寅彦)「天災と国防」(初出『経済往来』(経済往来社)1934年11月)

『丸善社史』(丸善1951年)

『丸善百年史』(丸善1981年)


日本橋丸善の惨状(当時の絵はがきから)

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