top of page


国語辞典小史
日本に現存する最古の辞典は、弘法大師空海による、『篆隷万象名義』とされる。931(承平元)年から937(承平7)年には、源順により平安時代の文物をまとめた、『倭名類聚抄』(倭名抄)が編纂された。室町時代以後、『節用集』と総称される辞典がいくつも作られ、写本で伝えられた。(諸本あり)国学者の谷川士清(たにがわことすが)による『和訓栞』は、1777(安永6)年から1877(明治10)年までかけて、前中後編に分けて出版された。 明治時代に入り、官版の国語辞典が企画されたが実現せず、執筆にあたった大槻文彦が、1889(明治22)年自費出版の形で『言海』を公にした。その前後には、国語学者の物集高見による『ことばのはやし』(みずほや)、歌人で教育者の落合直文による『ことばの泉』(大倉書店)が出版された。1907(明治40)年出版、比較言語学者の金沢庄三郎による『辞林』(三省堂)は、小型で表音式のため、扱いやすかったという。 1915(大正4)年から1919(大正8)年まで、国語学者の上田万年と松井簡治により、『大日本国語辞典』(冨山房)が出版された。冨山房は
乙原李成/Otohara Risei
19 時間前読了時間: 1分


開国と辞書編纂(独語篇)(2026/3/7)
日本におけるドイツ研究は、他の言語と同じく蘭学の延長線上にあった。1810(文化7)年には藤林普山により、『波留麻和解』の縮刷版である『訳鍵』に付した『蘭学径』で、ドイツ文字が紹介された。文政年間に滞在した医師のシーボルトが蘭学者に与えた影響は大きく、自身も『日本』を公表し、著名な日本学者のひとりになった。1861(万延元)年日普修好通商条約が調印されると、翌年には洋書調所が『官版独逸単語篇』を出版。 医学の分野では、適塾の緒方洪庵により、オランダ語からの重訳で、ドイツ人医師の全集ものが翻訳されていた。(『扶氏経験遺訓』全30巻)1871(明治4)年には、東京大学医学部(当時)にお雇い外国人のホフマン、ミュラーが採用された。そのためか、ドイツ語学習熱が高まり、中村雄吉『普語箋』(万笈閣)、森田靖之『独逸七以呂波』(文苑閣)などが出版された。独和辞典は同年、司馬凌海の『和訳独逸辞典』(春風社)などがある。(『復刻明治期独逸語辞典』三修社1981年) 1885(明治18)年には、フランス式軍制をドイツ式に改めた帝国陸軍に陸軍大学校が置かれ、お雇い外国
乙原李成/Otohara Risei
3月6日読了時間: 2分


開国と辞書編纂(露語篇)(2026/2/21)
徳川幕府とロマノフ朝ロシア帝国のあいだには国交がなかったため、漂流民がもっぱらロシアと日本を仲介するクーリエКурьерだった。古くは薩摩藩の漁民が日本語教師として残留し、いくつかの著作をまとめたりもした。 1792(寛政4)年完成した『北瑳聞略』は、エカテリーナ2世にも謁見した大黒屋光太夫の体験談を、蘭学者の桂川甫周が記録したもの。乗船が漂流してから送還されるまでの経緯に加え、現地の習慣、文物の名称がカナ書きで記された、18世紀ロシア百科事典ともいえる。写本で作成され、タイトルが異なる異本が多く存在するという。 蕃書和解御用、馬場貞由(通称佐十郎)はフランスの百科事典を共同でオランダ語から重訳したひとりだが、大黒屋光太夫、ゴロヴニンからロシア語も学んだ。1809(文化6)年『帝爵魯西亜国誌』『野作(エゾ)雑記』、1814(文化11)年『魯語文法規範』『俄羅斯小成(一名魯語小成)』等の著作がある。 1857(安政4)年、サンクトペテルブルクで出版した『和魯通言比考』は、掛川藩脱藩、橘耕斎と外交官のゴシケーヴィチが作った。日本語の活字は現地になかっ
乙原李成/Otohara Risei
2月21日読了時間: 2分


開国と辞書編纂(仏語篇)(2026/2/7)
日本がフランス文化に触れたのは、出島経由だった。1844(天保15)年の改暦には、オランダ語から重訳されたフランス天文学の知見が反映された。オランダ語訳のショメル『家庭実用百科事典』が18世紀末から19世紀にかけて輸入された。(Chomel,A.N.,Huishoudelyk woordboek.『厚生新編』など様々な翻訳、抄訳があるという。)頼山陽のように、ナポレオン・ボナパルトの業績を知る文人もいた。(「佛郎王歌」) 1858(安政5)年安政5か国条約のひとつ、日仏修好通商条約が締結されると外交官、軍人が来日。公使館付通訳のジラール神父が香港、琉球経由で来日したほか、1865(元治2)年横浜仏語伝習所(のちの陸軍幼年学校)が設置された。 この流れと前後して、松代藩医村上英俊が取り寄せた化学の参考書が、誤ってフランス語版が届き、佐久間象山のすすめもあって独習を始めた。のちに蕃書調所に出仕して、日本最初の仏和辞典、『仏語明要』(達理堂1864年)を含む、一連のフランス語参考書を出版している。版元の達理堂は、村上英俊の語学塾だったが、発音にオランダ
乙原李成/Otohara Risei
2月7日読了時間: 2分


開国と辞書編纂(蘭語篇)(2026/1/24)
徳川幕府による日蘭貿易が平戸から長崎へ移されたのち、通訳を家業(通詞)とする者が現れた。なかでも、本木良永や志筑忠雄は著作のなかで、地動説を紹介しているという。(『天地二球用法』『暦象新書』) 蘭癖で知られた徳川吉宗はオランダ通詞とは別に、青木昆陽と野呂元丈にオランダ語習得を命じたが、出島の商館長から学ぶだけでは限界があった。『和蘭文字略考』(1746(延享3)年、珍書同好会1917年復刻)などの写本が伝わる。1720(享保5)年から洋書輸入の一部解禁により医学の分野で蘭方医が増え、1774(安永3)年『解体新書』が出版された。(版元:須原屋市兵衛)辞書のない環境での翻訳の苦しみは、杉田玄白『蘭学事始』に詳しい。図版は木版で、秋田蘭画の小田野直武に原図が任された。約50年後には、弟子の大槻玄沢が改訳版を公表した。 1796(寛政8)年には既存の蘭仏辞典を参考に、『波留麻和解』(ゆまに書房1997年復刻)が出版された。オランダ語は活版、日本語は筆写だった。抄訳版の『訳鍵』が1810(文化7)年出版された。1833(天保4)年にはオランダ商館長と蘭学
乙原李成/Otohara Risei
1月24日読了時間: 2分


開国と辞書編纂(英語篇)(2026/1/10)
古くから中国大陸と交流があった日本では、平安時代(昌泰年間)に漢和辞典(字書)『新撰字鏡』がつくられた。安土桃山時代に南蛮貿易が行われると、宣教師による活版印刷で、キリシタン版『日葡辞書』がつくられた。 日英交流は、1600(慶長5)年漂着したオランダ商船にウィリアム・アダムスが居り、徳川幕府の庇護におかれたところから始まる。1608(慶長13)年平戸に商館までできたが、15年後閉鎖されてしまった。 1808(文化5)年イギリス軍艦が長崎に不法侵入した事件をきっかけに、英語習得を命ぜられるオランダ通詞たちがいた。彼らはオランダ商館にいたボロムホフに学び、『諳厄利亜言語和解』(一名、諳厄利亜興学小筌)、『諳厄利亜語林大成』をまとめた。さらに1848(嘉永元)年漂着したマクドナルドから教わった者のうち、森山栄之助は7年後再来日したペリーの通訳をした。 官製の英和/和英として、1862(文久2)年洋書調所が『英和対訳袖珍辞書』出版(開板)、組織改編後の開成所で1866(慶応2)年改正増補版を出した。これは1869(明治2)年に薩摩藩士によって、『和訳英
乙原李成/Otohara Risei
1月10日読了時間: 3分


謹賀新年(2026/1/1)
明けましておめでとうございます 本年もよろしくお願いいたします 令和8年元日 乙原李成 (画像は、画像生成AIのTryArtにより作成、 "A hawk flying on the Mt.Fuji." )
乙原李成/Otohara Risei
1月1日読了時間: 1分


自費出版さしあげます(2025/12/27)
市川代治著、吉原努訳『日本の文化』(2022年) 三矢藤太郎ほか編、乙原李成独訳『初版翻刻南洲翁遺訓』(2025年) 無償で郵送いたします 希望者は以下のアドレスまでご連絡ください ((a)を@に換えます) talentstepyoshi(a ) yahoo.co.jp
乙原李成/Otohara Risei
2025年12月27日読了時間: 1分


浮世絵流出(2025/12/13)
今年11月22日サザビーズ香港に出品された岡田美術館(箱根)の旧蔵品に、喜多川歌麿の肉筆画があると話題になった。結果として、日本人コレクターの手に落ちたという報道があったが、約11億円という落札金額もまた話題になった。 明治維新をむかえた日本には外交、商売その他さまざまな目的で、日本国籍をもたない「異人」が集まった。そのなかには仕事の必要上、また第二の人生に、あるいは趣味として、日本の伝統文化と関わり続けた人たちがいた。 アーネスト・サトウ(Satow,Ernest Mason,1843-1929)は大英帝国の外交官として来日、いろはから学習して、のち政府高官と渡り合った。そのとき収集した和書の多くが、ケンブリッジ大学図書館に収蔵されている。 東京大学(当時)のお雇い外国人、フェノロサ(Fenollosa, Ernest, 1853-1908)は、のちにボストン美術館東洋部長に就任。そのとき多くの浮世絵コレクションをもたらしたのは、ビゲロー(Bigelow, William Sturgis, 1850-1926)だった。 露店で浮世絵が一束いくら
乙原李成/Otohara Risei
2025年12月12日読了時間: 2分


忘れられた芝書店街(2025/11/29)
2025年9月、世界55か国333都市を紹介するサイトTimeOutが、神田神保町を今もっともクールな街と紹介。 https://www.timeout.com/tokyo/things-to-do/best-restaurants-cafes-shops-and-things-to-do-in-jimbocho 神田神保町は「神田古本まつり」が開催されるなど、古本と喫茶店とカレーを愛する人々から長らく親しまれてきた。本の街になったきっかけは、明治初期に大学南校(現在の東京大学)と商法講習所(現在の一橋大学)が開校したこと。正則と呼ばれた外国語による授業に使うため、学生たちは洋書や辞書を買い求め、卒業するとそれらを売ってしまう。1875(明治8)年出版条例改正による内務省への届出、1883(明治16)年の古物商取締条例が古書店と新刊書店を分離させた。1904(明治37)年東京市電の九段線小川町-九段下間開業は、一層集客につながった。 江戸時代に出版業がさかんだったのは京、大坂、江戸であり、版元が問屋をつくり、仲間内である行司の審査ののち、印刷販売
乙原李成/Otohara Risei
2025年11月29日読了時間: 2分


衆に敵すべからず(藤原銀次郎と大川平三郎)(2025/11/15)
紙といえば王子ホールディングス。日本国内シェア第1位。世界中に200もの拠点をもつ。いまこの時も、巨大なロールにできあがったばかりのさまざまな紙が巻き取られている。 創業者は渋沢栄一(1840-1931)だが、明治末には非効率、罷業のせいで経営難におちいった。慶応義塾卒、三井物産の藤原銀次郎(1869-1960)が1911(明治44)年から経営再建に呼ばれ、専務、社長を務めた。1933(昭和8)年には大川平三郎の(1860-1936)の富士製紙、樺太工業を合併。特殊紙を除く、日本全国のシェアをほぼ独占した。 そもそも大川平三郎も、渋沢栄一の縁故から創業当時の抄紙会社に入社し、職工から副支配人に登りつめた立志伝中の人物。三井財閥に追い出された形で退任すると、樺太を舞台に、王子製紙と工場の建設ラッシュを繰り広げた。「大川の大胆不敵」「大川の神速果敢」(『財界人思想全集 第5)と評されるように、我の強い人物でもあった。一方の藤原は、「人の長所を見て短所を気にしてはいけない」(『財界人思想全集 第4』)と周りに諭す人格者。慶応義塾大学理工学部の前身に当る
乙原李成/Otohara Risei
2025年11月15日読了時間: 2分
近代日本の製紙黎明期-会社系統図(2025/11/1)
大蔵省紙幣司(寮) 1871(明治4)年創設、1875(明治8)年紙幣寮に抄紙局設置、1877(明治10)年紙幣寮を印刷寮と改称、1879(明治12)年まで洋紙製造 抄紙会社 1873(明治6)年渋沢栄一により創業、1874(明治7)年より谷敬三支配人、1893(明治26)年王子製紙と改称、1911(明治44)年三井物産から藤原銀次郎(1869-1960)専務就任、1933(昭和8)年富士製紙、樺太工業と合併 L 有恒社 1872(明治5)年旧広島藩浅野家により東京にて創業、1924(大正13)年王子製紙に吸収合併 L 富士製紙 1887(明治20)年創業、1919(大正8)年大川平三郎社長就任、1933(昭和8)年王子製紙に吸収合併 L 蓬莱社 1871(明治4)年計画の洋法楮製商社をもとに創業、1875(明治8)年大阪にて製紙業務開始、1876(明治9)年真島製紙所と改称、1882(明治15)年大阪製紙株式会社、1906(明治39)年中之島製紙株式会社、1925年(大正14年)富士製紙に吸収合併 L パビール・ファブリック 1873(
乙原李成/Otohara Risei
2025年11月1日読了時間: 3分
近代日本の活版印刷略年表(2025/10/18)
1856(安政 3)年 長崎活字版摺立所、"Syntaxis,of woordvoeging der Nederduitsche taal."(和蘭文典後編成句論)、 "Nederduitsche spraakkunst ten dienste der scholen." (阿蘭陀文法書)複製出版 1858(安政 5)年 蕃書調所、"Leesboak voor de scholen van het nederlandsche leger." (レースブック)複製出版 同年 秋山佐蔵(八王子)金属活字製作、フーフェラント(C. W. Hufeland, 1762-1836)の"Enchiridion medicum."(済生三方)複製出版 1859(安政 6)年 本木昌造(1824-1875)『和英商賈対話集初編』(版元、塩田華八) 出版 1860(万延元)年 本木昌造『蕃語小引』(版元、増永文治・内田作五郎)出版 1862(文久 2)年 洋書調所(蕃書調所から改称)、『英和対訳袖珍辞書』出版 (翌年と1869年に改訂) 1869(明
乙原李成/Otohara Risei
2025年10月18日読了時間: 2分


寺田寅彦が見た丸善(2025/10/4)
寺田寅彦(1878-1935)は理学博士、1903年東京帝国大学理科大学実験物理学科卒業、いまで言う地球物理学を専攻した研究者。 また、吉村冬彦などのペンネームで、文学と自然科学を橋渡しするような随筆を数多く残した。『寺田寅彦随筆集』(岩波文庫)が入手しやすい。...
乙原李成/Otohara Risei
2025年10月4日読了時間: 3分


竹越与三郎著作目録(修正版)(2025/9/20)
竹越与三郎(1865-1950、号三叉)はひとつの場所に留まることができなかったようだ。 明治14(1881)年から慶応義塾に学ぶ前、中村正直の同人社にいたことがある。 就職先は明治16(1883)年10月から明治23(1890)年1月までに、時事新報社、基督教新聞、大阪公論、民友社を渡り歩いた。 民友社では、『国民之友』や『国民新聞』を創刊した徳富蘇峰の下でしばらく働き、明治28(1895)年に離れた。 結局自前のメディア、『世界之日本』(1896年-1899年)を創刊。 晩年の陸奥宗光や西園寺公望をいわばパトロンにして、原稿を集めた。 同時期に代表作の『二千五百年史』(警醒社書店1896年)を公表している。 明治35(1902)年第7回衆議院選挙に新潟県から出馬して当選。立憲政友会に創立時から所属していた。 請願委員長(第21、22、24回帝国議会)、商業会議所法中改正法律案委員長(第21回)、水利組合法案委員長(第24回)。 演説の声質は少し細く、俗にいう黄色いところがあり、左腕を前に、直立する姿が気取った印象を与えたという。...
乙原李成/Otohara Risei
2025年9月20日読了時間: 2分


松岡均平著作目録(修正版)(2025/9/6)
松岡均平(1876-1960)は東京出身。父は元徳島藩士の松岡康毅(1846-1923、検事総長、日本大学学長)。 1900年東京帝国大学法科大学卒業。1903年東京帝国大学助教授。欧米留学中に、南満洲鉄道株式会社東亜経済調査局設立に関わる。1910年法学博士。1911年から1921年まで同局を指導。1919年東京帝国大学休職、協調会常務理事就任。1920年内田嘉吉とともに国際海員労働会議参加。1921年から三菱合資会社参与。三菱経済研究所の設立に関わる。1923年男爵。1924年貴族院議員。 長女、純(1901年生)は三島通陽夫人、ガールスカウト( 日本女子補導団 )を育成。長男、松岡康光(1910-1986)は日本大学教授。 出典、『松岡康毅先生伝』(大山卯次郎1934年)ColorizeImagesによるカラー処理済
乙原李成/Otohara Risei
2025年9月6日読了時間: 1分
休止のお知らせ(2024/2/24)
身辺多忙につき当分の間更新を休止します 乙原李成
乙原李成/Otohara Risei
2024年2月24日読了時間: 1分


西郷人気(2024/2/24)
明治22(1889)年大日本帝国憲法発布と同日、西郷隆盛(1828-1877、号南洲)は特旨により、元の正三位に復した。 その直後から顕彰の出版物が続々著されることになった。 明治22(1889)年渡辺朝霞(新聞記者)『維新元勲西郷隆盛君之伝』(文事堂) 明治23(1890)年三矢藤太郎(旧庄内藩士)『南洲翁遺訓』 明治27(1894)年勝田孫弥(旧薩摩藩士)『西郷隆盛伝』全5巻 明治29(1896)年片淵琢(旧佐賀藩士)『西郷南洲先生遺訓』 明治32(1899)年『西郷隆盛』(少年読本第18編)(博文館) 明治43(1910)年伊藤痴遊(講釈師)『西郷南洲』正、続、外編(東亜堂) 『南洲翁遺訓』はいまでも読み継がれる名著のひとつ。 明治から令和にいたるまで、大同小異の書名で50冊以上出版された。 戊辰戦争後の寛大な処置に庄内藩士が感銘し、西郷隆盛の言動、思想を書き残したもの。 「敬天愛人」や「命も要らず、名も要らず、官位も金も要らぬ人」の出典がここにある。 大正15年政教社が出版したのは珍しい1冊で、玄洋社を率いた頭山満(1855-1944)の
乙原李成/Otohara Risei
2024年2月23日読了時間: 2分
末は博士か大臣か(2024/2/17)
東亜経済調査局関係者で博士号取得者は、松岡均平や大川周明がすでに紹介済なので、大臣(または国会議員)経験者を紹介したい。 波多野鼎(1896-1976)は愛知県出身のマルクス経済学者。 1920年東京帝国大学法学部法律学科(イギリス法選修)卒業。 在学中は東大新人会に参加。...
乙原李成/Otohara Risei
2024年2月16日読了時間: 2分


立身出世与三郎(2024/2/10)
竹越与三郎(1865-1950、号三叉)は、武蔵国本庄の造り酒屋の家に生まれた。 同人社(中村正直)、慶応義塾(福沢諭吉)に学ぶ。 明治16(1883)年新潟県柏崎、竹越家の養子に入る。 三叉の号は、故郷の川に由来するという。 明治19(1886)年霊南坂教会において受洗。 明治23(1890)年より明治28(1895)年まで『国民新聞』(民友社)記者。 明治29(1896)年より、『世界之日本』(開拓社、1896-1900)主筆。 明治31(1898)年文部省参事官を命じられ、西園寺公望の下で働く。 明治35(1902)年より大正4(1915)年衆議院議員(政友会所属)。 松本君平、望月小太郎とともに、衆議院の三ハイカラと呼ばれた。 大正11(1922)年より貴族院勅選議員(交友倶楽部所属)。 臨時帝室編修局御用掛のひとりとして『明治天皇紀』編纂に関わる。 昭和15(1940)年枢密顧問官。 昭和20(1945)年公職追放。 東京婦人矯風会委員の妻竹代も、一時期『国民新聞』(民友社)記者をしていた。 長男虎之助は星製薬に、次男熊三郎は三菱鉱業に
乙原李成/Otohara Risei
2024年2月9日読了時間: 3分
bottom of page