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竹越与三郎著作目録(修正版)(2025/9/20)

  • 乙原李成/Otohara Risei
  • 9月20日
  • 読了時間: 2分

竹越与三郎(1865-1950、号三叉)はひとつの場所に留まることができなかったようだ。

明治14(1881)年から慶応義塾に学ぶ前、中村正直の同人社にいたことがある。

就職先は明治16(1883)年10月から明治23(1890)年1月までに、時事新報社、基督教新聞、大阪公論、民友社を渡り歩いた。

民友社では、『国民之友』や『国民新聞』を創刊した徳富蘇峰の下でしばらく働き、明治28(1895)年に離れた。

結局自前のメディア、『世界之日本』(1896年-1899年)を創刊。

晩年の陸奥宗光や西園寺公望をいわばパトロンにして、原稿を集めた。

同時期に代表作の『二千五百年史』(警醒社書店1896年)を公表している。

明治35(1902)年第7回衆議院選挙に新潟県から出馬して当選。立憲政友会に創立時から所属していた。

請願委員長(第21、22、24回帝国議会)、商業会議所法中改正法律案委員長(第21回)、水利組合法案委員長(第24回)。

演説の声質は少し細く、俗にいう黄色いところがあり、左腕を前に、直立する姿が気取った印象を与えたという。

また、古今東西の歴史を引き合いに出すので、素養のない速記者を困らせることもあった。

「台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律」(明治39年法律第31号)の改正に関わったことが、後年の南進論につながっていく。(内地及台湾司法共通に関する法律案委員長(第25回帝国議会))

『台湾統治志』(博文館1905年)、『南国記』(二酉社1910年)などを著し、拓殖会議創設の建議(第28回帝国議会)も行った。

しかし、大正4(1915)年の総選挙では落選。大正15/昭和元(1926)年末、貴族院議員に選出。

昭和12(1937)年日中戦争開戦直後の貴族院本会議では、井上匡四郞子爵に続き、次のような演説をした。(昭和12年9月8日)

「私ハ只今議題トナリマシタ戦費ニ要スル支出ヲ賛成スル者デアリマス(中略)

今ヨリ三十余年前ニ北京ニ起ツタ所ノ団匪ノ乱ノ再現デアルト云フコトヲ茲ニ明言スルノデアリマス(中略)

我々ガ今ヤラムトスル所ハ何デアルカト云ヘバ「ペルシヤ」ノ野蛮人ガ「ヨーロッパ」ヲ進撃シタ時、「テミストクレス」ガ「サラミス」ニ於テ戦ツテ、此ノ蛮軍ヲ抑ヘタト同ジコトデアル(後略)」

19世紀末の義和団事件を紀元前5世紀サラミスの海戦に例えたのは独特の修辞であり、自費出版までして自論をくり返した。

晩年は空襲で焼け出され、公職追放を受けるという、寂しいものだった。


参考

帝国議会会議録検索システム

小野田亮正『現代名士の演説振』(博文館1908年)

高坂盛彦『ある明治リベラリストの記録』(中央公論新社2002年)ほか


『新日本』(新日本社)1912年4月号より
『新日本』(新日本社)1912年4月号より

竹越与三郎著作目録稿_修正版



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