開国と辞書編纂(露語篇)(2026/2/21)
- 乙原李成/Otohara Risei
- 2月21日
- 読了時間: 2分
徳川幕府とロマノフ朝ロシア帝国のあいだには国交がなかったため、漂流民がもっぱらロシアと日本を仲介するクーリエКурьерだった。古くは薩摩藩の漁民が日本語教師として残留し、いくつかの著作をまとめたりもした。
1792(寛政4)年完成した『北瑳聞略』は、エカテリーナ2世にも謁見した大黒屋光太夫の体験談を、蘭学者の桂川甫周が記録したもの。乗船が漂流してから送還されるまでの経緯に加え、現地の習慣、文物の名称がカナ書きで記された、18世紀ロシア百科事典ともいえる。写本で作成され、タイトルが異なる異本が多く存在するという。
蕃書和解御用、馬場貞由(通称佐十郎)はフランスの百科事典を共同でオランダ語から重訳したひとりだが、大黒屋光太夫、ゴロヴニンからロシア語も学んだ。1809(文化6)年『帝爵魯西亜国誌』『野作(エゾ)雑記』、1814(文化11)年『魯語文法規範』『俄羅斯小成(一名魯語小成)』等の著作がある。
1857(安政4)年、サンクトペテルブルクで出版した『和魯通言比考』は、掛川藩脱藩、橘耕斎と外交官のゴシケーヴィチが作った。日本語の活字は現地になかったはずなので、石版印刷が用いられたのだろう。(標題紙裏に、イオンソン印刷所、ゴーリキー・リトグラフ印刷所とあり。)1861(万延2)年箱館では、『ロシヤノイロハ』(米山堂1925年ほか複製)という、和綴じ木版刷りの小冊子が出版された。
明治維新後のロシア語教育は開拓使が行い、緒方洪庵の息子でロシア留学の経験がある、緒方惟孝が執筆したテキストが用いられた。(『魯語箋』上下)並行して、蕃書調所の流れを汲む東京外国語学校(1873年設置)では英独仏露清の5か国語を教え、魯語科にはさまざな経歴のロシア人教師が集まったという。外務省にも出仕した市川文吉、古川常一郎が中心になり、1887(明治20)年文部省から『露和字彙』が出版された。のちに大日本図書と丸善が文部省の許可を得て、改訂版を出した。
参照
高倉新一郎『北海道出版小史』(日本出版協会1947年)
『日本洋学編年史』(錦正社1965年)
村山七郎『漂流民の言語』(吉川弘文館1965年)
『北槎聞略』(早稲田大学出版部1993年)(国立公文書館蔵書の影印)
『東京外国語大学史』(東京外国語大学1999年)
山田勇「日本におけるロシア研究の黎明期」『としょかんだより』(香川大学附属図書館)33号(2001年12月)

『和魯通言比考』(1857年)標題紙及び標題紙裏



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