明治20(1887)年創業した出版界の雄、雑誌『太陽』や『新青年』で知られた博文館が、昭和の代に入ると見る影もなく衰退。
太平洋戦争敗戦後に分社化した理由のひとつに、三代目館主の大橋進一(1885-1959)の経営能力不足と、それをサポートできる人材に恵まれなかったのが原因とされる。
昭和22(1947)年博文館、大橋進一ともに公職追放令にひっかかり、当局の厳しい捜査を受け、現在は博文館新社発行の『博文館日記』にその名を残すのみである。
(ただし、直接的な後継会社という訳ではないという。)
同族経営の成功例として思い浮かんだ三菱グループと比較するとき、明治期の創業、多角経営といった類似点がある。
博文館の創業者、大橋佐平(1836-1901)はさまざまな事業に取り組んだ後、息子新太郎(1863-1944)の提案で雑誌記事を抜き出した『日本大家論集』の出版が当たり、ほぼ一代で製紙、印刷、取次にまたがったグループ企業をおこした。
創業当時何度も社名変更した三菱社の多角化が進んだのは、海運業から撤退し、造船や炭鉱経営に取り組んだ二代目、岩崎彌之助(1851-1908、岩崎彌太郎弟)の代からだった。
博文館の二代目館主、大橋新太郎(1863-1944)は社業よりも財界での活動に重きをおいたとされる。
三代目就任の際に多くのスタッフを入れ替え、自社と関わりの少ない企業の取締役を兼任、財団法人大橋図書館を設立させた。
仮に新太郎・進一親子のあいだに確執があったとしても、それは余人に計り知れないところである。
むしろ別の観点から、所有と経営の分離という概念から分析すると、明治8(1875)年には早くも会社規則を制定し、明治27(1894)年合資会社にあらためた三菱。
一方、博文館のグループ企業には、創業家縁故の者が多く、株式会社化は大正7(1918)年のことだった。
三菱が政商の一面をもった点を割引いても、博文館には時代の変化に対応(例えば、出版物の買い切り制から、返品可能な再販制への切り替え)できる柔軟さがなかった。
岩崎彌太郎(1835-1885)の、次のような言葉が伝わっている。
「番頭や手代を学識者にすることは出来ないが、学識者を番頭や手代にすることは出来る」
(三菱グループホームページ-三菱人物伝、vol.14 福沢諭吉と彌太郎)

大橋新太郎肖像(『南満洲鉄道株式会社十年史』(1919年))
参考
坪谷善四郎『博文館五十年史』『博文館五十年史年表』 (博文館1937年)
小川菊松『出版興亡五十年』(誠文堂新光社1953年)
田村哲三『近代出版文化を切り開いた出版王国の光と影』(法学書院2007年)
博文館新社・博友社ホームページ-会社概要(2023/10/20閲覧)
http://www.hakubunkan.co.jp/menu/gaiyo.html
三菱グループホームページ-三菱人物伝(2023/10/20閲覧)
https://www.mitsubishi.com/ja/profile/history/series/
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