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松岡均平著作目録(修正版)(2025/9/6)
松岡均平(1876-1960)は東京出身。父は元徳島藩士の松岡康毅(1846-1923、検事総長、日本大学学長)。 1900年東京帝国大学法科大学卒業。1903年東京帝国大学助教授。欧米留学中に、南満洲鉄道株式会社東亜経済調査局設立に関わる。1910年法学博士。1911年から1921年まで同局を指導。1919年東京帝国大学休職、協調会常務理事就任。1920年内田嘉吉とともに国際海員労働会議参加。1921年から三菱合資会社参与。三菱経済研究所の設立に関わる。1923年男爵。1924年貴族院議員。 長女、純(1901年生)は三島通陽夫人、ガールスカウト( 日本女子補導団 )を育成。長男、松岡康光(1910-1986)は日本大学教授。 出典、『松岡康毅先生伝』(大山卯次郎1934年)ColorizeImagesによるカラー処理済
乙原李成/Otohara Risei
2025年9月6日読了時間: 1分
休止のお知らせ(2024/2/24)
身辺多忙につき当分の間更新を休止します 乙原李成
乙原李成/Otohara Risei
2024年2月24日読了時間: 1分


西郷人気(2024/2/24)
明治22(1889)年大日本帝国憲法発布と同日、西郷隆盛(1828-1877、号南洲)は特旨により、元の正三位に復した。 その直後から顕彰の出版物が続々著されることになった。 明治22(1889)年渡辺朝霞(新聞記者)『維新元勲西郷隆盛君之伝』(文事堂) 明治23(1890)年三矢藤太郎(旧庄内藩士)『南洲翁遺訓』 明治27(1894)年勝田孫弥(旧薩摩藩士)『西郷隆盛伝』全5巻 明治29(1896)年片淵琢(旧佐賀藩士)『西郷南洲先生遺訓』 明治32(1899)年『西郷隆盛』(少年読本第18編)(博文館) 明治43(1910)年伊藤痴遊(講釈師)『西郷南洲』正、続、外編(東亜堂) 『南洲翁遺訓』はいまでも読み継がれる名著のひとつ。 明治から令和にいたるまで、大同小異の書名で50冊以上出版された。 戊辰戦争後の寛大な処置に庄内藩士が感銘し、西郷隆盛の言動、思想を書き残したもの。 「敬天愛人」や「命も要らず、名も要らず、官位も金も要らぬ人」の出典がここにある。 大正15年政教社が出版したのは珍しい1冊で、玄洋社を率いた頭山満(1855-1944)の
乙原李成/Otohara Risei
2024年2月23日読了時間: 2分
末は博士か大臣か(2024/2/17)
東亜経済調査局関係者で博士号取得者は、松岡均平や大川周明がすでに紹介済なので、大臣(または国会議員)経験者を紹介したい。 波多野鼎(1896-1976)は愛知県出身のマルクス経済学者。 1920年東京帝国大学法学部法律学科(イギリス法選修)卒業。 在学中は東大新人会に参加。...
乙原李成/Otohara Risei
2024年2月16日読了時間: 2分


立身出世与三郎(2024/2/10)
竹越与三郎(1865-1950、号三叉)は、武蔵国本庄の造り酒屋の家に生まれた。 同人社(中村正直)、慶応義塾(福沢諭吉)に学ぶ。 明治16(1883)年新潟県柏崎、竹越家の養子に入る。 三叉の号は、故郷の川に由来するという。 明治19(1886)年霊南坂教会において受洗。 明治23(1890)年より明治28(1895)年まで『国民新聞』(民友社)記者。 明治29(1896)年より、『世界之日本』(開拓社、1896-1900)主筆。 明治31(1898)年文部省参事官を命じられ、西園寺公望の下で働く。 明治35(1902)年より大正4(1915)年衆議院議員(政友会所属)。 松本君平、望月小太郎とともに、衆議院の三ハイカラと呼ばれた。 大正11(1922)年より貴族院勅選議員(交友倶楽部所属)。 臨時帝室編修局御用掛のひとりとして『明治天皇紀』編纂に関わる。 昭和15(1940)年枢密顧問官。 昭和20(1945)年公職追放。 東京婦人矯風会委員の妻竹代も、一時期『国民新聞』(民友社)記者をしていた。 長男虎之助は星製薬に、次男熊三郎は三菱鉱業に
乙原李成/Otohara Risei
2024年2月9日読了時間: 3分


地理学者としての志賀重昴(『日本風景論』を読む)(2024/2/3)
志賀重昴(1863-1927)は岡崎藩の儒者の家に生まれた。 東京、芝新銭座の攻玉社に学んだあと、明治17(1884)年札幌農学校卒業。 海軍兵学校の遠洋航海に同乗して、太平洋の島国を見聞。 明治21(1888)年杉浦重剛(1855-1924)、三宅雪嶺(1860-1945)らと雑誌『日本人』を創刊。 明治27(1894)年『日本風景論』(政教社)初版。以後版を重ねる。 妻の母校、跡見学園をはじめ、さまざまな教育機関で地理学を教えた。 東京地学協会、日本山岳会、イギリス王立地学協会会員。 『日本風景論』は、改版のたびに表紙挿絵を改めるという凝ったつくりだった。 気候の多様性に伴う植生の多様化。とくに多湿であること。 火山の多さと各地のおもな山々。そして登山の推奨。 日本アルプスが、ウェストン(Walter Weston, 1861-1940)により紹介された業績と、比較されることがある。 急流な河川による土地の浸食。そのような特徴がみられる名所。 そして、日本古来の花鳥風月を愛でる気風を再評価する。 和辻哲郎(1889-1960)『風土』(岩波書
乙原李成/Otohara Risei
2024年2月2日読了時間: 2分


伝記作家としての徳富蘇峰(『吉田松陰』を読む)(2024/1/27)
徳富蘇峰(1863-1957)は熊本藩士の嫡子として、現在の熊本県水俣市に育った。本名、猪一郎。 幼少期から四書五経になじみ、維新に至り熊本洋学校入学、熊本バンドに参加。 明治9(1876)年京都の同志社に移り受洗。その中退後は東京に出て、自由民権運動を目の当たりにした。 明治15(1882)年郷里に戻り私塾を経営、原書から西洋思想を学ぶ。 明治15(1882)年処女作『将来之日本』(経済雑誌社)を、本名で出版。 明治20(1887)年雑誌『国民之友』(民友社)、その3年後に『国民新聞』(国民新聞社)を創刊。 日清戦争を従軍記者として取材、三国干渉に衝撃をうけ外遊。 明治30(1897)年内務省参事官に就任し、それまでの政府批判からの変節を攻撃される。 桂内閣、寺内内閣に関与し、明治44(1911)年貴族院勅撰議員に任ぜられる。 その立場を利用して、弟徳富蘆花からの、大逆事件関係者への減刑嘆願を取り次いだとされる。 大正7(1918)年よりライフワーク、『近世日本国民史』を執筆開始。 織豊期から西南戦争に至る全100巻の通史は、徳富蘇峰の名がギネ
乙原李成/Otohara Risei
2024年1月26日読了時間: 3分
満鉄東亜経済調査局見学報告(3)
(承前) 解説 本書は海軍大学校の教材として、甲種19期の卒業直前、大正10(1921)年10月に謄写版印刷されたものである。 表紙の「普」という略字は、秘扱いではないことを表すのだろう。 「全105部ノ内第23号」とあるので、見学者と報告会の受講者をあわせてその程度の人数...
乙原李成/Otohara Risei
2024年1月19日読了時間: 3分


満鉄東亜経済調査局見学報告(2)(2024/1/13)
(承前) 海軍大学校大正10(1921)年作成。(個人蔵) 近代調査機関のあり方の一例。 (21ページ欠) (続く)
乙原李成/Otohara Risei
2024年1月12日読了時間: 1分


満鉄東亜経済調査局見学報告(1)(2024/1/6)
海軍大学校大正10(1921)年作成。(個人蔵) 近代における調査機関のあり方の一例。 (続く)
乙原李成/Otohara Risei
2024年1月5日読了時間: 1分
大逆事件の衝撃(2023/12/30)
明治39(1906)年発足の社会民主党は、無政府主義の影響を受けた党員によって、分裂の危機にあったという。 雑誌『社会主義研究』創刊号に「共産党宣言」翻訳全文が掲載、クロポトキン『麺麭(パン)の略取』翻訳出版は同じ年。 さかのぼること、明治8(1875)年公布の新聞紙条例は違反者への禁固刑及び罰金刑を定め、以来多くの逮捕者を出していた。 平民新聞記者の釈放祝いに社会民主党の両派を招いたところ、酒の勢いもあったのだろう、お開きのあとの言動から逮捕者を出した。 法をどのように解釈し、どのように運用するかは為政者のさじ加減だろう。 政友会総裁の西園寺公望が許容していた主義者を、陸軍を中心に広く影響をもつ山縣有朋は取り締まった。 この明治42(1909)年の赤旗事件の翌年、過激派による爆弾製作をきっかけに、予防措置が取られた。 天皇、皇族に「危害ヲ加へ又ハ加へントシタル者ハ死刑」とした旧刑法(明治13年公布、明治15年施行)以来、大逆罪は死をもって償われた。 厳しい運用(一審が最終審)のためか、適用されたのはこのときと、大正15(1926)年の虎ノ門事件
乙原李成/Otohara Risei
2023年12月29日読了時間: 3分
社会主義思想の広まり(2023/12/23)
文明開化とともに西洋の文物が取り入れられると、さまざまな政治思想も伝わった。 明治初期の自由民権運動と、社会主義または無政府主義は、同時並行で知識人の間に広まった。 『明六雑誌』(報知社)第2号(1875年3月)で、加藤弘之が「コムムニスト党」と記したのが、用語の初出とされる。 明治14(1881)年 明治十四年の政変と同年。 『六合雑誌』(六合雑誌社)第7号(1881年4月)に小崎弘道「近世社会黨ノ原因ヲ論ズ」が掲載された。 翌年にはウールセイ(Woolsey, Theodore Dwight, 1801-1889)の『古今社会党沿革説』(弘令社出版局1882年)が翻訳出版。 いずれもマルクスの名前を紹介した初出とされる。(同じ原書を使用したという。) 明治22(1889)年大日本帝国憲法発布、翌年第1回帝国議会開会。 それと同時期に、『萬朝報』記者の斯波貞吉が、『国家的社会論』(富山房1892年)にて文献をひろく紹介。 さらに『国家学会雑誌』(国家学会)第7巻第72号(1893年2月)、第7巻第74号(1893年4月)の2回、...
乙原李成/Otohara Risei
2023年12月22日読了時間: 2分
学歴だけが頼りだった(2023/12/16)
南満洲鉄道株式会社におかれたソビエト・ロシア調査部門を調べていて違和感をいだいたのは、田中九一(1896-1995)という人物だった。 愛知県出身。大正10(1921)年東京帝国大学法学部法律学科(ドイツ法選修)卒業後に満鉄入社、東亜経済調査局配属。...
乙原李成/Otohara Risei
2023年12月16日読了時間: 2分
満鉄調査部のロシア調査(2023/12/9)
南満洲鉄道株式会社が日露戦争の結果設立された国策会社だったのはよく知られている。 小林英夫によれば、本格的にロシア調査が始まったのは、第一次世界大戦中にロシア革命が起きてからだという。 大正11(1922)年ブラゴベシチェンスク図書館から持ち出されたロシア陸軍極東軍管区旧蔵...
乙原李成/Otohara Risei
2023年12月8日読了時間: 2分


嶋野三郎の嘘(2023/12/2)
嶋野三郎(1893-1982)は石川県の札差の家に生まれた。 県が命じたロシア留学生のひとりとして1911年ウラジオストク、1912年モスクワ、1913年ペテルブルクで学ぶ。 1914年から満鉄が留学費用を給付、ロシア革命に伴い引き揚げ、1917年満鉄入社、総務部調査課配属...
乙原李成/Otohara Risei
2023年12月1日読了時間: 4分
軒を貸して母屋を取られる話(2023/11/25)
永雄策郎(1884-1960、京都府出身)と大川周明(1886-1957、山形県出身)の2人はよく似た経歴をもつ。 明治40(1907)年7月1日旧制第五高等学校卒業式。永雄策郎は第1部英法政治科。大川周明は第1部英文科。...
乙原李成/Otohara Risei
2023年11月24日読了時間: 1分


成り上がり者栗原廣太(2023/11/18)
栗原廣太(くりはら ひろた 1877-1955)は鳥取県士族の家に生まれた。 栗原茂吉の養子となり、家督相続。 明治31(1898)年日本法律学校(現、日本大学)卒業 明治34(1901)年文官高等試験合格、宮内省採用。...
乙原李成/Otohara Risei
2023年11月17日読了時間: 2分
東京日日新聞をめぐる人々(2023/11/11)
明治5(1872)年2月21日(旧暦)日報社が創刊。早くから鉛活字と西洋紙を使用。創刊の2年後に銀座へ移転した時、すでに8千部を売り上げたという。(『日本新聞発達史』) 戯作者条野伝平(採菊)(1832-1902)、浮世絵師落合芳幾(1833-1904)、貸本業西田伝助(1838-1910)の共同発行。購読料は1部140文、1か月だと銀20目(匁)。その頃あった新聞茶屋では見料2厘プラス茶代5厘、新聞縦覧所では1時間5厘かかったという。(『毎日新聞百年史』) 『太政官日誌』(明治9(1876)年12月廃刊)と『官報』(明治16(1883)年7月2日創刊)のつなぎとして機能。明治政府から月額約1万円の補助金をうけていたという。経営不振により、明治44(1911)年『大阪毎日新聞』に売却された。(『新聞史話』) 以下生年順に紹介。 岸田銀次(吟香)(1833-1905)美作国の百姓の家に生まれる。大坂へ出て、緒方洪庵に学ぶ。幕末の横浜でヘボンと和英辞書を編纂。『海外新聞』『横浜新報もしほ草』を共同発行ののち、1873年日報社入社。自ら販売する目薬の広
乙原李成/Otohara Risei
2023年11月11日読了時間: 3分
新聞小説ことはじめ(2023/11/3)
先に引用した尾崎紅葉『金色夜叉』は、もともと『読売新聞』に連載された新聞小説のひとつだった。 新聞小説にまつわるエピソードでは、東京帝国大学・旧制一高講師を辞職して東京朝日新聞で連載をもった夏目漱石(1867-1916)が有名だろう。 逆にもともと新聞記者から作家・脚本家として一本立ちした、岡本綺堂(1872-1939)のような例もある。 新聞小説がどのように始まったか調べてみると興味深いエピソードを再発見できたので、ここに紹介したい。 すでに検証され、否定されている説だが、明治30(1897)年『早稲田文学』が連載した文学年表の「明治9年11月」の記述が有力だった。 「此の頃『絵入』に「金之助の話」と題し、虚実混合の物を載し好評、これ新聞小説の嚆矢なり」(第1次第2期33号(1897年5月)24ページ) 記者だった野崎左文が、「(絵入新聞)記者の前田夏繁氏が明治11年9月に(中略)「金之助の話」といふ三分の事実に七分の潤色を加へた続き物を載せ始め」と訂正した。 さらに英文学者で日本文学研究者の柳田泉は、以下の通り確認した。 『東京絵入新聞』明治
乙原李成/Otohara Risei
2023年11月2日読了時間: 3分
言文一致に貢献した人々(2023/10/28)
「貫一は力無げに宮の手を執れり。宮は涙に汚れたる男の顔をいと懇(ねんごろ)に拭(ぬぐ)ひたり。 「吁(ああ)、宮(みい)さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。 一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。 来年の今月今夜は、貫一は何処どこでこの月を見るのだか! 再来年(さらいねん)の今月今夜……十年後のちの今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。 来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」 宮は挫(ひし)ぐばかりに貫一に取着きて、物狂(ものぐる)はしう咽入(むせびい)りぬ。」(『金色夜叉』前編第8章) かつて硯友社(けんゆうしゃ)という文学サークルがあった。 尾崎紅葉(1868-1903)や山田美妙(1868-1910)といった学生あがりの文学青年たちが明治2
乙原李成/Otohara Risei
2023年10月27日読了時間: 3分
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