top of page


満鉄東亜経済調査局見学報告(1)(2024/1/6)
海軍大学校大正10(1921)年作成。(個人蔵) 近代における調査機関のあり方の一例。 (続く)
乙原李成/Otohara Risei
2024年1月5日読了時間: 1分
大逆事件の衝撃(2023/12/30)
明治39(1906)年発足の社会民主党は、無政府主義の影響を受けた党員によって、分裂の危機にあったという。 雑誌『社会主義研究』創刊号に「共産党宣言」翻訳全文が掲載、クロポトキン『麺麭(パン)の略取』翻訳出版は同じ年。 さかのぼること、明治8(1875)年公布の新聞紙条例は違反者への禁固刑及び罰金刑を定め、以来多くの逮捕者を出していた。 平民新聞記者の釈放祝いに社会民主党の両派を招いたところ、酒の勢いもあったのだろう、お開きのあとの言動から逮捕者を出した。 法をどのように解釈し、どのように運用するかは為政者のさじ加減だろう。 政友会総裁の西園寺公望が許容していた主義者を、陸軍を中心に広く影響をもつ山縣有朋は取り締まった。 この明治42(1909)年の赤旗事件の翌年、過激派による爆弾製作をきっかけに、予防措置が取られた。 天皇、皇族に「危害ヲ加へ又ハ加へントシタル者ハ死刑」とした旧刑法(明治13年公布、明治15年施行)以来、大逆罪は死をもって償われた。 厳しい運用(一審が最終審)のためか、適用されたのはこのときと、大正15(1926)年の虎ノ門事件
乙原李成/Otohara Risei
2023年12月29日読了時間: 3分
社会主義思想の広まり(2023/12/23)
文明開化とともに西洋の文物が取り入れられると、さまざまな政治思想も伝わった。 明治初期の自由民権運動と、社会主義または無政府主義は、同時並行で知識人の間に広まった。 『明六雑誌』(報知社)第2号(1875年3月)で、加藤弘之が「コムムニスト党」と記したのが、用語の初出とされる。 明治14(1881)年 明治十四年の政変と同年。 『六合雑誌』(六合雑誌社)第7号(1881年4月)に小崎弘道「近世社会黨ノ原因ヲ論ズ」が掲載された。 翌年にはウールセイ(Woolsey, Theodore Dwight, 1801-1889)の『古今社会党沿革説』(弘令社出版局1882年)が翻訳出版。 いずれもマルクスの名前を紹介した初出とされる。(同じ原書を使用したという。) 明治22(1889)年大日本帝国憲法発布、翌年第1回帝国議会開会。 それと同時期に、『萬朝報』記者の斯波貞吉が、『国家的社会論』(富山房1892年)にて文献をひろく紹介。 さらに『国家学会雑誌』(国家学会)第7巻第72号(1893年2月)、第7巻第74号(1893年4月)の2回、...
乙原李成/Otohara Risei
2023年12月22日読了時間: 2分
学歴だけが頼りだった(2023/12/16)
南満洲鉄道株式会社におかれたソビエト・ロシア調査部門を調べていて違和感をいだいたのは、田中九一(1896-1995)という人物だった。 愛知県出身。大正10(1921)年東京帝国大学法学部法律学科(ドイツ法選修)卒業後に満鉄入社、東亜経済調査局配属。...
乙原李成/Otohara Risei
2023年12月16日読了時間: 2分
満鉄調査部のロシア調査(2023/12/9)
南満洲鉄道株式会社が日露戦争の結果設立された国策会社だったのはよく知られている。 小林英夫によれば、本格的にロシア調査が始まったのは、第一次世界大戦中にロシア革命が起きてからだという。 大正11(1922)年ブラゴベシチェンスク図書館から持ち出されたロシア陸軍極東軍管区旧蔵...
乙原李成/Otohara Risei
2023年12月8日読了時間: 2分


嶋野三郎の嘘(2023/12/2)
嶋野三郎(1893-1982)は石川県の札差の家に生まれた。 県が命じたロシア留学生のひとりとして1911年ウラジオストク、1912年モスクワ、1913年ペテルブルクで学ぶ。 1914年から満鉄が留学費用を給付、ロシア革命に伴い引き揚げ、1917年満鉄入社、総務部調査課配属...
乙原李成/Otohara Risei
2023年12月1日読了時間: 4分
軒を貸して母屋を取られる話(2023/11/25)
永雄策郎(1884-1960、京都府出身)と大川周明(1886-1957、山形県出身)の2人はよく似た経歴をもつ。 明治40(1907)年7月1日旧制第五高等学校卒業式。永雄策郎は第1部英法政治科。大川周明は第1部英文科。...
乙原李成/Otohara Risei
2023年11月24日読了時間: 1分


成り上がり者栗原廣太(2023/11/18)
栗原廣太(くりはら ひろた 1877-1955)は鳥取県士族の家に生まれた。 栗原茂吉の養子となり、家督相続。 明治31(1898)年日本法律学校(現、日本大学)卒業 明治34(1901)年文官高等試験合格、宮内省採用。...
乙原李成/Otohara Risei
2023年11月17日読了時間: 2分
東京日日新聞をめぐる人々(2023/11/11)
明治5(1872)年2月21日(旧暦)日報社が創刊。早くから鉛活字と西洋紙を使用。創刊の2年後に銀座へ移転した時、すでに8千部を売り上げたという。(『日本新聞発達史』) 戯作者条野伝平(採菊)(1832-1902)、浮世絵師落合芳幾(1833-1904)、貸本業西田伝助(1838-1910)の共同発行。購読料は1部140文、1か月だと銀20目(匁)。その頃あった新聞茶屋では見料2厘プラス茶代5厘、新聞縦覧所では1時間5厘かかったという。(『毎日新聞百年史』) 『太政官日誌』(明治9(1876)年12月廃刊)と『官報』(明治16(1883)年7月2日創刊)のつなぎとして機能。明治政府から月額約1万円の補助金をうけていたという。経営不振により、明治44(1911)年『大阪毎日新聞』に売却された。(『新聞史話』) 以下生年順に紹介。 岸田銀次(吟香)(1833-1905)美作国の百姓の家に生まれる。大坂へ出て、緒方洪庵に学ぶ。幕末の横浜でヘボンと和英辞書を編纂。『海外新聞』『横浜新報もしほ草』を共同発行ののち、1873年日報社入社。自ら販売する目薬の広
乙原李成/Otohara Risei
2023年11月11日読了時間: 3分
新聞小説ことはじめ(2023/11/3)
先に引用した尾崎紅葉『金色夜叉』は、もともと『読売新聞』に連載された新聞小説のひとつだった。 新聞小説にまつわるエピソードでは、東京帝国大学・旧制一高講師を辞職して東京朝日新聞で連載をもった夏目漱石(1867-1916)が有名だろう。 逆にもともと新聞記者から作家・脚本家として一本立ちした、岡本綺堂(1872-1939)のような例もある。 新聞小説がどのように始まったか調べてみると興味深いエピソードを再発見できたので、ここに紹介したい。 すでに検証され、否定されている説だが、明治30(1897)年『早稲田文学』が連載した文学年表の「明治9年11月」の記述が有力だった。 「此の頃『絵入』に「金之助の話」と題し、虚実混合の物を載し好評、これ新聞小説の嚆矢なり」(第1次第2期33号(1897年5月)24ページ) 記者だった野崎左文が、「(絵入新聞)記者の前田夏繁氏が明治11年9月に(中略)「金之助の話」といふ三分の事実に七分の潤色を加へた続き物を載せ始め」と訂正した。 さらに英文学者で日本文学研究者の柳田泉は、以下の通り確認した。 『東京絵入新聞』明治
乙原李成/Otohara Risei
2023年11月2日読了時間: 3分
言文一致に貢献した人々(2023/10/28)
「貫一は力無げに宮の手を執れり。宮は涙に汚れたる男の顔をいと懇(ねんごろ)に拭(ぬぐ)ひたり。 「吁(ああ)、宮(みい)さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。 一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。 来年の今月今夜は、貫一は何処どこでこの月を見るのだか! 再来年(さらいねん)の今月今夜……十年後のちの今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。 来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」 宮は挫(ひし)ぐばかりに貫一に取着きて、物狂(ものぐる)はしう咽入(むせびい)りぬ。」(『金色夜叉』前編第8章) かつて硯友社(けんゆうしゃ)という文学サークルがあった。 尾崎紅葉(1868-1903)や山田美妙(1868-1910)といった学生あがりの文学青年たちが明治2
乙原李成/Otohara Risei
2023年10月27日読了時間: 3分


博文館の衰退、三菱との比較から(2023/10/21)
明治20(1887)年創業した出版界の雄、雑誌『太陽』や『新青年』で知られた博文館が、昭和の代に入ると見る影もなく衰退。 太平洋戦争敗戦後に分社化した理由のひとつに、三代目館主の大橋進一(1885-1959)の経営能力不足と、それをサポートできる人材に恵まれなかったのが原因とされる。 昭和22(1947)年博文館、大橋進一ともに公職追放令にひっかかり、当局の厳しい捜査を受け、現在は博文館新社発行の『博文館日記』にその名を残すのみである。 (ただし、直接的な後継会社という訳ではないという。) 同族経営の成功例として思い浮かんだ三菱グループと比較するとき、明治期の創業、多角経営といった類似点がある。 博文館の創業者、大橋佐平(1836-1901)はさまざまな事業に取り組んだ後、息子新太郎(1863-1944)の提案で雑誌記事を抜き出した『日本大家論集』の出版が当たり、ほぼ一代で製紙、印刷、取次にまたがったグループ企業をおこした。 創業当時何度も社名変更した三菱社の多角化が進んだのは、海運業から撤退し、造船や炭鉱経営に取り組んだ二代目、岩崎彌之助(18
乙原李成/Otohara Risei
2023年10月20日読了時間: 2分
明治期の伝道史考察(2023/10/14)
グーテンベルク聖書を引き合いにするまでもなく、布教と出版は深い関わりがある。 同じイエス・キリストを信仰の対象としながら、教義が異なるカトリックとプロテスタントは、開国後の日本人にはおおむね同等に受け入れられたといえる。 いまでも日本の市区町村のなかに神社仏閣、カトリックとプロテスタント、正教会、モスクが混在している。 キリスト教伝道略年表 1862年、横浜、カトリック山手教会設立<カトリック> 1863年、横浜、ヘボン<長老派教会>、私塾開校(のちの明治学院) 1865年、長崎、大浦天主堂設立、信徒発見<カトリック> 1865年、横浜、矢野隆山、福音書重訳、ジェームズ・バラより受洗 1868年、太政官による五傍の掲示「第三札 切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ」云々 1870年、東京、築地A6番女学校開校(のちの女子学院)<長老派教会> 1870年、横浜、フェリス女学院開校<改革派教会> 1871年、ゴーブル<パブテスト>による『摩太福音書』翻訳 1872年、横浜、横浜海岸教会設立<日本基督公会> 1873年、横浜、捜真女学校開校<パブテスト>.
乙原李成/Otohara Risei
2023年10月13日読了時間: 2分
出版文化の普及の要因(2023/10/7)
1.印刷技法の発達、2.義務教育による識字率の向上、を挙げてよいだろう。 明治6(1873)年抄紙会社創業(のちの王子製紙)、明治9(1876)年秀英舎創業(のちの大日本印刷)。 江戸時代には主流だった手すきの零細な製紙業は、大資本による近代的な製紙工場にとって代わられた。 木版と墨による製版が、明治以降金属活字と油性インクをつかう活版印刷にとって代わられた。 尋常小学校による義務教育が明治33(1900)年から4年間に、明治40(1907)年から6年間にされ、貧しい家に生まれた児童でも、最低限の教育を受けてから社会に出た。 高等教育を受ける経済力、学力があれば、男女間で差があったものの、男子は帝国大学、女子は師範学校まで進むことができた。 国公立、私立大学の前身である、専門学校令に基づく専門学校も明治末期から大正時代にかけて、都市部の人口増に伴い、数多く設立された。 メディアの発達と読者の増加は車の両輪のようなものである。 『小国民』(明治22(1889)年)、『家庭之友』(明治36(1903)年)、『講談倶楽部』(明治44(1911)年)とい
乙原李成/Otohara Risei
2023年10月6日読了時間: 2分
内田魯庵以前の丸善(2023/9/23)
丸善といえば、丸善とジュンク堂が合併したいまでも、国内有数の洋書専門店というイメージがある。(ちなみに、紀伊國屋書店は昭和2(1927)年創業。) 雑誌『学鐙』(『学燈』とも、明治30(1897)年3月創刊)を愛読した思い出をお持ちの方もいるかもしれない。 創業者、早矢仕有的(はやしゆうてき、1837-1901)が慶応義塾で学んだのち創業したことから、福沢諭吉(1835-1901)の影響により実業家となり、さらに東京大学の出版物も引き受けていたことを、社史を読んで初めて知った。 明六社の活動停滞により、文部省が設置した東京学士会院の雑誌発行、社内積立金を元手にした丸屋銀行の設立(ただし、1884年破綻)、インキ販売、革製品(馬具、鞄など)を取り扱う菱屋など、多様な事業を手掛け、明治26(1893)年丸善株式会社に改組した。 『東京大学小石川植物園草木図説』『東京大学予備門一覧』等(書名の東京大学は帝国大学以前の名称)の大学出版物を発行。西洋詩を翻訳紹介した『新体詩抄』(1882)の編者、井上哲次郎、外山正一、矢田部良吉や『日本植物名彙』(1884
乙原李成/Otohara Risei
2023年9月22日読了時間: 2分


宮武外骨の造本(2023/9/16)
宮武外骨(1867-1955)は、江戸から明治の印刷物を利用した編集著作物をさかんに世に送り出した。 明治22(1889)年、『頓智協会雑誌』第28号に、大日本帝国憲法の発布式をパロディにした記事を掲載。 不敬罪で大審院まで争ったのち、挿絵や印刷のスタッフとともに禁固刑をうけた。 さらに駅売で隔週の『滑稽新聞』を出し、社会風刺に評判をえた一方、風俗壊乱罪でたびたび官憲の注意を受けた。 それにこりたのか、雅俗文庫という自費出版社を、大阪市西区江戸堀に開いた。 大逆事件がおきた明治43(1910)年、雑誌『此花』を創刊し、うって変わって浮世絵の翻刻や江戸風俗を考証した本を出版。 部数は少なかったが、紙に越前奉書をつかい、摺師にもこだわったため、採算がとれなかったという。 さらに半狂堂という自費出版社を、上野桜木町の東京美術学校近く(のち向岡弥生町、東京帝大農学部そば)に開いた。 『面白半分』『一癖随筆』『明治奇聞』『文明開化』など次々と出版。 のちに著作集がまとめられたが、原本そのものもいまだに人気が高い。 ブログ管理人が所蔵する『川柳語彙』は大正1
乙原李成/Otohara Risei
2023年9月15日読了時間: 2分


吉野作造の収書(2023/9/9)
吉野作造(1878-1933)といえば「大正デモクラシー」、というくらい、壮年期には本業の大学教授の仕事のほか、いわゆる「民本主義」に関する数多くの執筆、講演をこなした。 40歳(1918年)のときの年間講演回数が38件41回あり、総収入13,989円5銭。帝大教授としての収入3,768円50銭を大きく上回ったという。(紀伊國屋書店2009年、28分ごろ) 生涯に6人の娘を育てた生活費、「明治文化研究会」をはじめとする交際費のほか、中国朝鮮からの苦学生への援助もしていたが、それでも有り余る金を古書収集につぎこんだ。 昭和ヒトケタの円本が全盛のころ、古本展で百円使ったことがあるという。文学書が1点数十銭、雑誌のバックナンバーが1冊数銭という時代の話である。 明治時代の雑誌や新聞を集めては、当時の広告から未収資料をチェック。 買っては片っ端から目を通し、より分けて蔵書票を貼って保存。 つまらないと思うものは処分した。 そうして保存した、和洋あわせて9千冊近い旧蔵書は、昭和9(1934)年東京帝国大学法学部に買い上げられた。 明治10年代から20年代に
乙原李成/Otohara Risei
2023年9月8日読了時間: 2分
関東大震災で失われたもの(2023/9/2)
大正12(1923)年9月1日正午少し前、相模湾を震源域とした推定マグニチュード7.9の地震が発生。 続く余震と火災により、震源に近い神奈川県各地と旧東京市内に甚大な被害を及ぼした。 本所被服廠跡での死者約3万8千人、横浜港や外国人居留地の焼失、鎌倉の津波、根府川駅での土砂崩れは、いまも語り継がれている。 東京帝国大学は、周辺地域での火災がなかったにもかかわらず、化学薬品の落下により失火。各学部、図書館を全焼させた。 赤坂溜池からの延焼により、大倉喜八郎一代の蒐集品をおさめた大倉集古館が焼失した。 神田区では震災直後、宮城北側の複数の町から出火。 区役所、警察署、停車場、神社仏閣、教会、小学校から大学、専門学校、図書館、商店、民家を焼き尽くした。 中央官衙の記録類が多く失われたばかりでなく、業務の性質上、何がなくなったのかすら明らかにされなかった。 日比谷公園の日比谷図書館は閲覧室など破損したが、その年のうちに閲覧を再開した。 上野公園の帝国図書館は一部の蔵書が破損、焼失し、約1か月休館。 横浜地方裁判所では職員や検事、傍聴人らがレンガや木材の下
乙原李成/Otohara Risei
2023年9月2日読了時間: 2分
明治文化研究会(2023/8/26)
大正13(1924)年11月発足。 東京市京橋区尾張町、福永書店に事務局を置いた。 「明治初期以来の社会萬般の事相を研究し、之れを我が國民史の資料として發表すること。」(『新旧時代』1925年2月号)を目的とした。 発足時は以下の会員がいた。(生年順) 石井研堂(1865-1943)福島県出身。雑誌『小国民』編集者。著書に『明治事物起源』など。 宮武外骨(1867-1955)香川県出身。著述業。東京帝国大学法学部附属明治雑誌新聞文庫事務主任。 吉野作造(1878-1933)宮城県出身。政治学者として、「民本主義」を唱えた。大正デモクラシーの中心人物のひとり。 石川巌(1878-1947)山形県出身。東京大学史料編纂所勤務ののち、雑誌『書物往来』を創刊。 尾佐竹猛(1880-1946)石川県出身。元大審院判事。法学博士。晩年は議会史編纂事業に参加。 藤井甚太郎(1883-1958)福岡県出身。維新史料編纂に長くたずさわった。開国百年記念文化事業会常務理事。 小野秀雄(1885-1977)滋賀県出身。東京大学新聞研究所所長、日本新聞学会会長。...
乙原李成/Otohara Risei
2023年8月25日読了時間: 2分
明治大正の出版文化(2023/8/19)
明治文化研究会という好事家の集まりがかつてあった。大学教授から出版業、古書に一家言もつ人々が江戸明治期の文献を買い集めては復刻し、考証やエッセイを書いては自ら雑誌を創刊、発表の場をつくった。 吉野作造(1878-1933)や宮武外骨(1867-1955)の名はいまでも知られ...
乙原李成/Otohara Risei
2023年8月18日読了時間: 2分
bottom of page