衆に敵すべからず(藤原銀次郎と大川平三郎)(2025/11/15)
- 乙原李成/Otohara Risei
- 11月15日
- 読了時間: 2分
紙といえば王子ホールディングス。日本国内シェア第1位。世界中に200もの拠点をもつ。いまこの時も、巨大なロールにできあがったばかりのさまざまな紙が巻き取られている。
創業者は渋沢栄一(1840-1931)だが、明治末には非効率、罷業のせいで経営難におちいった。慶応義塾卒、三井物産の藤原銀次郎(1869-1960)が1911(明治44)年から経営再建に呼ばれ、専務、社長を務めた。1933(昭和8)年には大川平三郎の(1860-1936)の富士製紙、樺太工業を合併。特殊紙を除く、日本全国のシェアをほぼ独占した。
そもそも大川平三郎も、渋沢栄一の縁故から創業当時の抄紙会社に入社し、職工から副支配人に登りつめた立志伝中の人物。三井財閥に追い出された形で退任すると、樺太を舞台に、王子製紙と工場の建設ラッシュを繰り広げた。「大川の大胆不敵」「大川の神速果敢」(『財界人思想全集 第5)と評されるように、我の強い人物でもあった。一方の藤原は、「人の長所を見て短所を気にしてはいけない」(『財界人思想全集 第4』)と周りに諭す人格者。慶応義塾大学理工学部の前身に当る学校を創立して、人材育成を欠かさなかった。1929(昭和4)年富士製紙で大川の事業パートナーとして活躍、大株主だった穴水要七衆議院議員が急死。その遺書に、「株は藤原氏に処置して貰い、富士製紙のあとは万事藤原氏に面倒を見て貰うように」とあったほど、大川は人望が無かった。現代と価値観が異なり、コネや学閥がものを言った時代、ここまで差がついたのはひとえに人間味だった。「寡固不可以敵衆(寡は固より以て衆に敵すべからず)」(『孟子』梁恵王上伝)
参照
王子ホールディングス
国立国会図書館-近代日本人の肖像
『大川平三郎君伝』(大川平三郎君伝記編纂会1936年)
下田将美『藤原銀次郎回顧八十年』(大日本雄弁会講談社1949年)
『財界人思想全集 第4』(ダイヤモンド社1969年)
『財界人思想全集 第5』(ダイヤモンド社1970年)

藤原銀次郎(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

大川平三郎(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

コメント