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博文館の衰退、三菱との比較から(2023/10/21)
明治20(1887)年創業した出版界の雄、雑誌『太陽』や『新青年』で知られた博文館が、昭和の代に入ると見る影もなく衰退。 太平洋戦争敗戦後に分社化した理由のひとつに、三代目館主の大橋進一(1885-1959)の経営能力不足と、それをサポートできる人材に恵まれなかったのが原因とされる。 昭和22(1947)年博文館、大橋進一ともに公職追放令にひっかかり、当局の厳しい捜査を受け、現在は博文館新社発行の『博文館日記』にその名を残すのみである。 (ただし、直接的な後継会社という訳ではないという。) 同族経営の成功例として思い浮かんだ三菱グループと比較するとき、明治期の創業、多角経営といった類似点がある。 博文館の創業者、大橋佐平(1836-1901)はさまざまな事業に取り組んだ後、息子新太郎(1863-1944)の提案で雑誌記事を抜き出した『日本大家論集』の出版が当たり、ほぼ一代で製紙、印刷、取次にまたがったグループ企業をおこした。 創業当時何度も社名変更した三菱社の多角化が進んだのは、海運業から撤退し、造船や炭鉱経営に取り組んだ二代目、岩崎彌之助(18
乙原李成/Otohara Risei
2023年10月20日読了時間: 2分
明治期の伝道史考察(2023/10/14)
グーテンベルク聖書を引き合いにするまでもなく、布教と出版は深い関わりがある。 同じイエス・キリストを信仰の対象としながら、教義が異なるカトリックとプロテスタントは、開国後の日本人にはおおむね同等に受け入れられたといえる。 いまでも日本の市区町村のなかに神社仏閣、カトリックとプロテスタント、正教会、モスクが混在している。 キリスト教伝道略年表 1862年、横浜、カトリック山手教会設立<カトリック> 1863年、横浜、ヘボン<長老派教会>、私塾開校(のちの明治学院) 1865年、長崎、大浦天主堂設立、信徒発見<カトリック> 1865年、横浜、矢野隆山、福音書重訳、ジェームズ・バラより受洗 1868年、太政官による五傍の掲示「第三札 切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ」云々 1870年、東京、築地A6番女学校開校(のちの女子学院)<長老派教会> 1870年、横浜、フェリス女学院開校<改革派教会> 1871年、ゴーブル<パブテスト>による『摩太福音書』翻訳 1872年、横浜、横浜海岸教会設立<日本基督公会> 1873年、横浜、捜真女学校開校<パブテスト>.
乙原李成/Otohara Risei
2023年10月13日読了時間: 2分
出版文化の普及の要因(2023/10/7)
1.印刷技法の発達、2.義務教育による識字率の向上、を挙げてよいだろう。 明治6(1873)年抄紙会社創業(のちの王子製紙)、明治9(1876)年秀英舎創業(のちの大日本印刷)。 江戸時代には主流だった手すきの零細な製紙業は、大資本による近代的な製紙工場にとって代わられた。 木版と墨による製版が、明治以降金属活字と油性インクをつかう活版印刷にとって代わられた。 尋常小学校による義務教育が明治33(1900)年から4年間に、明治40(1907)年から6年間にされ、貧しい家に生まれた児童でも、最低限の教育を受けてから社会に出た。 高等教育を受ける経済力、学力があれば、男女間で差があったものの、男子は帝国大学、女子は師範学校まで進むことができた。 国公立、私立大学の前身である、専門学校令に基づく専門学校も明治末期から大正時代にかけて、都市部の人口増に伴い、数多く設立された。 メディアの発達と読者の増加は車の両輪のようなものである。 『小国民』(明治22(1889)年)、『家庭之友』(明治36(1903)年)、『講談倶楽部』(明治44(1911)年)とい
乙原李成/Otohara Risei
2023年10月6日読了時間: 2分
内田魯庵以前の丸善(2023/9/23)
丸善といえば、丸善とジュンク堂が合併したいまでも、国内有数の洋書専門店というイメージがある。(ちなみに、紀伊國屋書店は昭和2(1927)年創業。) 雑誌『学鐙』(『学燈』とも、明治30(1897)年3月創刊)を愛読した思い出をお持ちの方もいるかもしれない。 創業者、早矢仕有的(はやしゆうてき、1837-1901)が慶応義塾で学んだのち創業したことから、福沢諭吉(1835-1901)の影響により実業家となり、さらに東京大学の出版物も引き受けていたことを、社史を読んで初めて知った。 明六社の活動停滞により、文部省が設置した東京学士会院の雑誌発行、社内積立金を元手にした丸屋銀行の設立(ただし、1884年破綻)、インキ販売、革製品(馬具、鞄など)を取り扱う菱屋など、多様な事業を手掛け、明治26(1893)年丸善株式会社に改組した。 『東京大学小石川植物園草木図説』『東京大学予備門一覧』等(書名の東京大学は帝国大学以前の名称)の大学出版物を発行。西洋詩を翻訳紹介した『新体詩抄』(1882)の編者、井上哲次郎、外山正一、矢田部良吉や『日本植物名彙』(1884
乙原李成/Otohara Risei
2023年9月22日読了時間: 2分


宮武外骨の造本(2023/9/16)
宮武外骨(1867-1955)は、江戸から明治の印刷物を利用した編集著作物をさかんに世に送り出した。 明治22(1889)年、『頓智協会雑誌』第28号に、大日本帝国憲法の発布式をパロディにした記事を掲載。 不敬罪で大審院まで争ったのち、挿絵や印刷のスタッフとともに禁固刑をうけた。 さらに駅売で隔週の『滑稽新聞』を出し、社会風刺に評判をえた一方、風俗壊乱罪でたびたび官憲の注意を受けた。 それにこりたのか、雅俗文庫という自費出版社を、大阪市西区江戸堀に開いた。 大逆事件がおきた明治43(1910)年、雑誌『此花』を創刊し、うって変わって浮世絵の翻刻や江戸風俗を考証した本を出版。 部数は少なかったが、紙に越前奉書をつかい、摺師にもこだわったため、採算がとれなかったという。 さらに半狂堂という自費出版社を、上野桜木町の東京美術学校近く(のち向岡弥生町、東京帝大農学部そば)に開いた。 『面白半分』『一癖随筆』『明治奇聞』『文明開化』など次々と出版。 のちに著作集がまとめられたが、原本そのものもいまだに人気が高い。 ブログ管理人が所蔵する『川柳語彙』は大正1
乙原李成/Otohara Risei
2023年9月15日読了時間: 2分


吉野作造の収書(2023/9/9)
吉野作造(1878-1933)といえば「大正デモクラシー」、というくらい、壮年期には本業の大学教授の仕事のほか、いわゆる「民本主義」に関する数多くの執筆、講演をこなした。 40歳(1918年)のときの年間講演回数が38件41回あり、総収入13,989円5銭。帝大教授としての収入3,768円50銭を大きく上回ったという。(紀伊國屋書店2009年、28分ごろ) 生涯に6人の娘を育てた生活費、「明治文化研究会」をはじめとする交際費のほか、中国朝鮮からの苦学生への援助もしていたが、それでも有り余る金を古書収集につぎこんだ。 昭和ヒトケタの円本が全盛のころ、古本展で百円使ったことがあるという。文学書が1点数十銭、雑誌のバックナンバーが1冊数銭という時代の話である。 明治時代の雑誌や新聞を集めては、当時の広告から未収資料をチェック。 買っては片っ端から目を通し、より分けて蔵書票を貼って保存。 つまらないと思うものは処分した。 そうして保存した、和洋あわせて9千冊近い旧蔵書は、昭和9(1934)年東京帝国大学法学部に買い上げられた。 明治10年代から20年代に
乙原李成/Otohara Risei
2023年9月8日読了時間: 2分
関東大震災で失われたもの(2023/9/2)
大正12(1923)年9月1日正午少し前、相模湾を震源域とした推定マグニチュード7.9の地震が発生。 続く余震と火災により、震源に近い神奈川県各地と旧東京市内に甚大な被害を及ぼした。 本所被服廠跡での死者約3万8千人、横浜港や外国人居留地の焼失、鎌倉の津波、根府川駅での土砂崩れは、いまも語り継がれている。 東京帝国大学は、周辺地域での火災がなかったにもかかわらず、化学薬品の落下により失火。各学部、図書館を全焼させた。 赤坂溜池からの延焼により、大倉喜八郎一代の蒐集品をおさめた大倉集古館が焼失した。 神田区では震災直後、宮城北側の複数の町から出火。 区役所、警察署、停車場、神社仏閣、教会、小学校から大学、専門学校、図書館、商店、民家を焼き尽くした。 中央官衙の記録類が多く失われたばかりでなく、業務の性質上、何がなくなったのかすら明らかにされなかった。 日比谷公園の日比谷図書館は閲覧室など破損したが、その年のうちに閲覧を再開した。 上野公園の帝国図書館は一部の蔵書が破損、焼失し、約1か月休館。 横浜地方裁判所では職員や検事、傍聴人らがレンガや木材の下
乙原李成/Otohara Risei
2023年9月2日読了時間: 2分
明治文化研究会(2023/8/26)
大正13(1924)年11月発足。 東京市京橋区尾張町、福永書店に事務局を置いた。 「明治初期以来の社会萬般の事相を研究し、之れを我が國民史の資料として發表すること。」(『新旧時代』1925年2月号)を目的とした。 発足時は以下の会員がいた。(生年順) 石井研堂(1865-1943)福島県出身。雑誌『小国民』編集者。著書に『明治事物起源』など。 宮武外骨(1867-1955)香川県出身。著述業。東京帝国大学法学部附属明治雑誌新聞文庫事務主任。 吉野作造(1878-1933)宮城県出身。政治学者として、「民本主義」を唱えた。大正デモクラシーの中心人物のひとり。 石川巌(1878-1947)山形県出身。東京大学史料編纂所勤務ののち、雑誌『書物往来』を創刊。 尾佐竹猛(1880-1946)石川県出身。元大審院判事。法学博士。晩年は議会史編纂事業に参加。 藤井甚太郎(1883-1958)福岡県出身。維新史料編纂に長くたずさわった。開国百年記念文化事業会常務理事。 小野秀雄(1885-1977)滋賀県出身。東京大学新聞研究所所長、日本新聞学会会長。...
乙原李成/Otohara Risei
2023年8月25日読了時間: 2分
明治大正の出版文化(2023/8/19)
明治文化研究会という好事家の集まりがかつてあった。大学教授から出版業、古書に一家言もつ人々が江戸明治期の文献を買い集めては復刻し、考証やエッセイを書いては自ら雑誌を創刊、発表の場をつくった。 吉野作造(1878-1933)や宮武外骨(1867-1955)の名はいまでも知られ...
乙原李成/Otohara Risei
2023年8月18日読了時間: 2分
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