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  • 乙原李成/Otohara Risei

立身出世与三郎(2024/2/10)

竹越与三郎(1865-1950、号三叉)は、武蔵国本庄の造り酒屋の家に生まれた。

同人社(中村正直)、慶応義塾(福沢諭吉)に学ぶ。

明治16(1883)年新潟県柏崎、竹越家の養子に入る。

三叉の号は、故郷の川に由来するという。

明治19(1886)年霊南坂教会において受洗。

明治23(1890)年より明治28(1895)年まで『国民新聞』(民友社)記者。

明治29(1896)年より、『世界之日本』(開拓社、1896-1900)主筆。

明治31(1898)年文部省参事官を命じられ、西園寺公望の下で働く。

明治35(1902)年より大正4(1915)年衆議院議員(政友会所属)。

松本君平、望月小太郎とともに、衆議院の三ハイカラと呼ばれた。

大正11(1922)年より貴族院勅選議員(交友倶楽部所属)。

臨時帝室編修局御用掛のひとりとして『明治天皇紀』編纂に関わる。

昭和15(1940)年枢密顧問官。

昭和20(1945)年公職追放。

東京婦人矯風会委員の妻竹代も、一時期『国民新聞』(民友社)記者をしていた。

長男虎之助は星製薬に、次男熊三郎は三菱鉱業に入社。

北海道に関心があったとき生まれた長女北見は、長崎造船所の元良信太郎に嫁いだ。


竹越与三郎の著作を、国立国会図書館デジタルコレクションや国立情報学研究所のCiNiiで検索して、添付のようにまとめてみた。

図書約40タイトル、雑誌記事約190件あるが、新聞記者時代の執筆記事は含めていない。

明治10年代後半は翻訳、プロテスタント系の『六合雑誌』への投稿が多く、その延長線上にフランクリンやクロムウェルの伝記が続く。

夫婦で徳富蘇峰の民友社で働いた期間は短く、その後はプロテスタントからも離れることになる。

ただし、この時期に、マコーリー(Thomas Babington Macaulay, 1800-1859)の伝記を執筆したことが、『新日本』『二千五百年史』といった、今でも読まれる通史を執筆するきっかけになった。

さらなる転機は文筆家として認められて、第3次伊藤内閣の文部大臣だったときの西園寺公望に仕えたこと。

国木田独歩ら作家との窓口のような働きをしていたという。

『惜春雑話』『読画楼間話』『三叉文存』といった随筆を次々執筆したのは、その影響だろうか。

議員活動を通じて関心をもった事柄が、雑誌記事の主題となっていることが多い。

「現今の教育に対する希望」(『教育報知』1903年11月)、「青年と南洋活動」(『成功』1906年2月)、「五六年後支那に一大変動起らん」(『新公論』1908年3月)、「師団増設問題」(『慶応義塾学報』1912年12月)

『台湾統治志』『南国記』といった著作により、南進論のさきがけとする見かたもある。

なお、『大宅壮一文庫雑誌記事索引総目録』に採録された記事は、対象となる人物や出来事への批評であって、本人が執筆した著作物ではないことに注意を要する。

また、衆議院議員、貴族院議員を務めていたことから、「帝国議会会議録検索システム」を検索すると、なにか発見があるかもしれない。


参考

『中央公論』(中央公論社)第25年第11号第260号(1910年11月)

鵜崎鷺城『奇物凡物』(隆文館図書1915年)(『日本人物誌選集』第10巻(クレス出版2008年)に収録。)

『大衆人事録 3版』(帝国秘密探偵社・帝国人事通信社1930年)

中村哲「竹越三叉のこと」『学鐙』(丸善)第53巻第10号(1956年10月)

中村哲「解説」『二千五百年史』第5巻(講談社1977年)

『六合雑誌の研究』(教文館1984年)

『国史大辞典』第9巻(吉川弘文館1988年)

多磨霊園ホームページ-歴史が眠る多磨霊園-竹越竹代(2024年2月9日閲覧)


竹越与三郎(竹越三叉)著作目録稿


竹越与三郎著作目録稿
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(肖像)左から長女北見、竹越与三郎、竹越竹代

『グラヒック』(有楽社(1903-1912))第2巻第1号(1910年1月)より。

(国立国会図書館デジタルコレクション掲載記事を加工。)

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