永雄策郎(1884-1960、京都府出身)と大川周明(1886-1957、山形県出身)の2人はよく似た経歴をもつ。
明治40(1907)年7月1日旧制第五高等学校卒業式。永雄策郎は第1部英法政治科。大川周明は第1部英文科。
明治44(1911)年7月11日東京帝国大学卒業式。永雄策郎は法科大学政治学科。大川周明は文科大学哲学科(宗教学専修)。
満鉄入社は、永雄策郎は大正4(1915)年。大川周明は大正7(1918)年。
博士号取得は、大川周明は大正15(1926)年法学博士。永雄策郎は昭和5(1930)年経済学博士。
拓殖大学には、永雄策郎は昭和4(1929)年講師、昭和6(1931)年教授、昭和14(1939)年専門部長。大川周明は昭和10(1935)年教授。
両者で大きく異なるのは、「組織力」のひと言につきるだろう。
大川周明は旧制五高で栗野事件とよばれる、教員への学生のストライキを起こしたのを初めとして、国家主義団体とされる猶存社、行地社、神武会を結成。
永雄策郎が1931年満鉄を退職した後も、東亜経済調査局の財団法人時代、太平洋戦争終戦まで、大川周明は影響力を保ちつづけた。
満鉄入社、東亜経済調査局への配属をはたらきかけたとされる永雄策郎としては、軒を貸して母屋を取られるの思いが去来したかもしれない。
参考
拓殖大学歴史ミュージアム-拓大人物図鑑-大川周明(2023/11/24閲覧)
https://historium.takushoku-u.ac.jp/person/okawa.html
『官報』明治40年7月8日、明治44年7月13日、大正15年8月26日、昭和5年8月8日
大塚健洋『大川周明』(中央公論新社1995年、講談社2009年)
『永雄策郎』(拓殖大学2004年)
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