「貫一は力無げに宮の手を執れり。宮は涙に汚れたる男の顔をいと懇(ねんごろ)に拭(ぬぐ)ひたり。
「吁(ああ)、宮(みい)さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。
一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。
来年の今月今夜は、貫一は何処どこでこの月を見るのだか!
再来年(さらいねん)の今月今夜……十年後のちの今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!
可いか、宮さん、一月の十七日だ。
来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」
宮は挫(ひし)ぐばかりに貫一に取着きて、物狂(ものぐる)はしう咽入(むせびい)りぬ。」(『金色夜叉』前編第8章)
かつて硯友社(けんゆうしゃ)という文学サークルがあった。
尾崎紅葉(1868-1903)や山田美妙(1868-1910)といった学生あがりの文学青年たちが明治20年代、『我楽多文庫』という雑誌あるいは叢書にせっせと習作を発表した。
そこで用いられた文体が、言文一致のはじめということになっている。
その集大成ともいえる『金色夜叉』は当時のベストセラーとして知られるが、地の文が文語体、会話が口語体という文体は過渡期とはいえ、前中後編とその続きを現代人が読み通すのは難しいだろう。
その一方で坪内逍遥(1859-1935)が『小説神髄』で唱えた近代文学論が、二葉亭四迷(1864-1909)に受け継がれ、『浮雲』は同時代の文学者たちに衝撃を与えたという。
こなれた文体の読みやすさ、だけでなく、英文学やロシア文学に学んだ社会批評が、それまでの戯作文学になじんだ世代に目新しいものに映ったようだ。
ただし、二葉亭四迷こと長谷川辰之助は文学者とみなされるのを嫌い、ペンネームの由来も、処女作を師の名前で出さずには売れなかった悔悟からきたもの。
(「(てめえなんぞ)くたばってしめえ」のもじり。父から文学の志を批難されたのを忘れないため、というのは俗説。)
二葉亭四迷の読みやすさは、もうひとつ、初代三遊亭圓朝(1839-1900)から学んだことによる。
「君は圓朝の落語を知つてゐよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たら何(ど)うかといふ。」(『余が言文一致の由来』)
具体的には、速記術が輸入された頃、東京稗史出版社による速記本が評判となり、坪内逍遥は春のやおぼろ名義で、『怪談牡丹燈籠』第2版(文事堂1885年)に序文をよせていた。
それを文体の手本のひとつとして示したものと考えられる。
東京稗史出版社は、『小説神髄』の奥付にある版元でもあった。
(実際は東京稗史出版社の組版を、松月堂が印刷発行。)
個人的にも岩波文庫に収録された『怪談牡丹燈籠』を、夢中になってひと晩で読み通した。
書かれている風俗は江戸時代だが、ちっとも読みにくさはなかった。
落語から出た近代文学、「青は藍より出でて藍より青し」とは正にこのことだろう。
参考
青空文庫-幸田露伴「言語体の文章と浮雲」(初出『二葉亭四迷』(易風社1909年))
(2023/10/27閲覧)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000051/files/1446_47793.html
青空文庫-内田魯庵「硯友社の勃興と道程」(初出『きのふけふ』(博文館1916年))
(2023/10/27閲覧)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000165/files/49567_53842.html
千代田区教育委員会-硯友社跡(2023/10/27閲覧)
https://www.edo-chiyoda.jp/knainobunkazai/bunkazaisign_hyochu_setsumeiban/2/2/143.html
柳田泉「坪内逍遥入門」「二葉亭四迷入門」『日本現代文学全集 第4 』(講談社1962年)
伊藤整「近代日本の作家の生活」『近代日本人の発想の諸形式』(岩波書店1981年、初出『文芸読本』(新潮社1956年)
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