石川鉄雄(1886-1934)は東京府出身。明治43(1910)年東京帝国大学法科大学法律学科卒業。
大正元(1912)年から第四高等学校(金沢市)教授を約5年務めた。
農商務省臨時産業調査局に一時席をおいたあと、大正7(1918)年南満洲鉄道入社。
東亜経済調査局に配属され、『世界製鉄業』のうち、概篇・独逸製鉄業を分担執筆。
翌年に本社調査課長を命じられ、それまでの現地調査に加え、東亜経済調査局の資料組織法を持ち込む功績があった、とされる。
昭和2(1927)年臨時経済調査委員会委員長兼第一部幹事、昭和7(1932)年経済調査会副委員長と、調査を伴う管理職を次々こなした。
関東軍との折衝を伴う激職のために、外国留学時にかかった結核が再発、昭和9(1934)年に天に召された。
思想信条の点において、新渡戸稲造門下、内山鑑三にも影響を受けたプロテスタントだった。
満蒙文化協会、満鉄社員会の運営にも関わり、その早すぎる死が関係者から惜しまれたという。
参考文献
「経済調査会設立について」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13010317400、縣自治組織暫行章程他 住谷悌史資料(防衛省防衛研究所)
『官報』明治43年7月13日、大正元年9月2日
「閑話休題」『雄弁』(大日本雄弁講談社)第6巻第11号(1915年11月)
塚本虎二「先生に蝮の卵と言はれた「柏會」」『内山鑑三全集月報』(岩波書店)第16号(1933年7月)
「石川鉄雄氏逝く」『新天地』(新天地社)第14巻第8号(1934年8月)
「石川鉄雄君の面影」『新天地』(新天地社)第14巻第9号(1934年9月)
「逝ける石川鉄雄氏」『満蒙』(満蒙社)第15巻第10号(1934年10月)
『南満洲鉄道株式会社第三次十年史 下巻』(龍溪書舎1976年)
「満鉄調査部関係者に聞く 23 」『アジア経済』第29巻第3号(1988年3月)(『満鉄調査部』(アジア経済研究所1996年)所載)
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