栗原廣太(くりはら ひろた 1877-1955)は鳥取県士族の家に生まれた。
栗原茂吉の養子となり、家督相続。
明治31(1898)年日本法律学校(現、日本大学)卒業
明治34(1901)年文官高等試験合格、宮内省採用。
明治40(1907)年伯爵広橋賢光の後任として、大臣官房調査課長。
大正元(1912)年9月13日青山における大喪の儀に事務方として参列。
『東京日日新聞』にいた鵜崎鷺城の人物評では一種の成り上がり。
東伏見宮家に仕えた桂潜太郎、伊藤博文に近かった古谷久綱と並び、宮内省で評判が良くなかった。
ただ、華族社会で格下の者が生きる気苦労を割引いて考える必要があるだろう。
大正3(1914)年昭憲皇太后大喪の直後、病気退職。
大正9(1920)年満鉄嘱託。
宮中顧問官だった岡野敬次郎が、松岡均平と縁戚であり、その縁故採用と考えられる。
大正12(1923)年から昭和6(1931)年まで東亜経済調査局主事。
昭和9(1934)年から東京市嘱託。
財団法人東亜経済調査局理事の副島道正も、国際オリンピック委員会委員として、同年東京市嘱託に採用されている。
昭和10(1935)年から昭和12(1937)年まで新興採炭株式会社代表取締役。
新興採炭は東亜経済調査局と同じ丸ビルに会社登記され、三菱の関連会社だったらしい。
『岡野敬次郎伝』(六樹会1926年)『元帥加藤友三郎伝』(宮田光雄1928年)『伯爵伊東巳代治』(晨亭会1938年)編纂委員。
趣味の尺八について、『尺八史考』(竹友社1918年)の著作もある。
参考文献
『職員録』(印刷局)明治35年、明治36年、
『人事興信録』(人事興信所)2版(1908年)
鵜崎鷺城『朝野の五大閥』(東亜堂1912年)
『明治大帝御聖歴』(大日本国祖報徳会1912年)
『東京社会辞彙』(毎日通信社1913年)
『財政経済問題講演集』(全国経済調査機関聯合会1923年)
松岡均平「岡野先生の孝行と友情」『岡野敬次郎伝』(六樹会1926年)
『大衆人事録』(帝国秘密探偵社)3版(1930年)
『官報』(大蔵省印刷局)昭和10年5月21日、昭和12年7月5日
『東京市職員録 昭和11年7月』(東京市1936年)
『東京市職員写真銘鑑』(市政人社1936年)
栗原廣太『明治の御宇』(四季書房1941年)
栗原廣太肖像
出典:『東京社会辞彙』(毎日通信社1913年)
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