嶋野三郎(1893-1982)は石川県の札差の家に生まれた。
県が命じたロシア留学生のひとりとして1911年ウラジオストク、1912年モスクワ、1913年ペテルブルクで学ぶ。
1914年から満鉄が留学費用を給付、ロシア革命に伴い引き揚げ、1917年満鉄入社、総務部調査課配属。
1920年から東亜経済調査局において『露和辞典』(白水社1928年)を編纂。
その後ロシア亡命のムスリム、クルバンガリーを世話する。
1930年から欧州事務所(フランス、パリ)勤務。
帰国後に、財団法人東亜経済調査局の理事長候補に採りあげられたとされる。
草柳大蔵『実録満鉄調査部』によると、五・一五事件前に河本大作(1932年10月満鉄理事就任)の仲介により、財団法人の理事会で決定。
そこで大川周明、当時関東軍にいて大川周明と旧知の板垣征四郎、尾張徳川家相続、事件に資金提供した徳川義親の三者が話し合い、くつがえしたとある。
さらに後年の嶋野三郎の講演内容が『嶋野三郎』に収録されているが、これは昭和8年のことだったと訂正。
その上で、石本憲治理事に理事長就任をすすめられ、八田嘉明満鉄副総裁と河本大作を加えた四者が満鉄新京事務所で協議を行った。
それを憲兵隊にかぎつけられ、徳川義親邸にて板垣征四郎(1933年夏ヨーロッパ出張)と大川周明が、河本大作を𠮟責して、話が流れたことになっている。
理事会の議事録は残されていないと思われ、関係者の証言がどこまで正しいか、が検証のポイントになる。
『嶋野三郎』の記述には誤りが多く、八田嘉明を満鉄総裁と誤り(林博太郎総裁)、石本憲治理事が財団か満鉄の役職かはっきりしない。
石本憲治は1933年に総務部長になるまで、毎年のように配属先が変わった上、前任の山西恒郎が1933年時点で総務担当理事だった。
なお、満鉄の幹部が財団法人の理事を兼ねることはあった。
最大の誤認は、大川周明が五・一五事件の関係者に武器を供与したことにより、1932年6月から「囹圄の身」となり、理事長人事など相談できなかった点。
漢方医学の研究者、中山忠直が雑誌『東洋』に満洲の紀行文を寄せているが、そこには「(1933年5月)22日大連に着いた。」
「(嶋野三郎が)3日前パリーから帰つて赴任したばかりなのに出迎へにきてゐてくれた。」とある。
1932年、一方の当事者がまだヨーロッパにおり、一方の当事者が行動制限を受けたことを考えると、財団法人の役員交替の話自体なかったことになる。
なぜこのような証言がのこされたか、といえば、大川周明と嶋野三郎の関係にあるだろう。
大川周明が『露和辞典』の序文に編纂事業への理解と賛辞を記す前から、嶋野三郎は大川周明の国家主義団体にいくつか所属していたことがあった。
嶋野三郎が草柳大蔵の取材をうけたり、没後『嶋野三郎』がまとめられた当時は、極東国際軍事裁判の場で錯乱したA級戦犯というイメージが先行した。
近年ようやく、イスラーム研究の先駆的指導者のひとり、またはインド独立を導いた教育者として、大川周明は再評価されている。
東條英機や北一輝との関係をみると分かるように、大川周明は組織力が評価できる一方、周りから人が離れていくような性格も持ち合わせていたようだ。
そのような人物とかかわりがあったことを打ち消したい、むしろ対立すらしていた、と印象付けたい思いが「嘘」を生んだ、と主張したら言いすぎだろうか。
参考
『満蒙』(満蒙社)第12巻第5号(1931年5月)
鷲尾義直『木堂先生写真伝』(木堂雑誌社出版部1932年、交研社1975年)
『満州建国の大業成る』(日満通信社1932年)
八木英三『最近の満洲に使して』(岩手日報社出版部1933年)
『満洲国商工界名簿録』(公倫社1933年)
『満洲に於ける調査委員会と満鉄』(南満洲鉄道1933年)
『東洋』(東洋協会)第36巻第9号(1933年9月)
平野零児『満洲の陰謀者』(自由国民社1959年)
相良俊輔『赤い夕陽の満洲野が原に』(光人社1978年)
草柳大蔵『実録満鉄調査部』上・下(朝日新聞社1979年、朝日文庫1983年)
『嶋野三郎』(原書房1984年)
松本健一『大川周明』(作品社1986年、岩波現代文庫2004年)
玉居子精宏『大川周明アジア独立の夢』(平凡社2012年)

嶋野三郎肖像
出典:ウィキペディア、ムハンマド・ガブドゥルハイ・クルバンガリー、日本の有名なる後援者犬養氏・頭山氏及び在東京回教僧正クルバンガリー氏・神戸回教僧正シャムグニ氏
(早稲田大学所蔵、パブリックドメイン)
『木堂先生写真伝』(木堂雑誌社出版部1932年)によれば、昭和3年10月撮影。
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