南満洲鉄道株式会社におかれたソビエト・ロシア調査部門を調べていて違和感をいだいたのは、田中九一(1896-1995)という人物だった。
愛知県出身。大正10(1921)年東京帝国大学法学部法律学科(ドイツ法選修)卒業後に満鉄入社、東亜経済調査局配属。
翌年に東大新人会OBが結成した社会思想社にも参加。
波多野鼎(1896-1976)、嘉治隆一(1896-1978)、京都帝大卒の松方三郎(1899-1973、筆名後藤信夫)も二足のわらじを履いた。
社会思想社は時流にのって、『社会科学大辞典』『マルクス=エンゲルス全集』を改造社から出版。
田中九一は昭和10(1935)年時点で、財団法人東亜経済調査局主事。
経済調査会、産業部資料室北方班を経て、昭和15(1940)年時点で調査役兼調査部第三調査室主査。
この第三調査室は、哈爾浜事務所と並び、満鉄におけるソビエト・ロシア調査の要だった。
ところが、この人物はロシア語がある時点まで使えなかった。
トロツキー『ロシアは何処へ行く?』(同人社書店1927年)を翻訳したとき、前書きで英独からの重訳であることを断っている。
第三調査室にカード・システムを取り入れ、地理、気候、資源、行政、交通事情等、求めに応じて引き出せるようにした功績があったという。
次の配属先は北支経済調査所長。哈爾浜事務所調査課を改変した、北「満」経済調査所ではないことに目を疑った。
流行語に「マルクスボーイ」があり、一方で治安維持法による思想弾圧があった昭和だが、言語の習得からみると、その限界がうかがえる。
先に紹介した嶋野三郎のほか、二葉亭四迷や八杉貞利、帝国陸軍や東京外国語学校など、ロシア語を学んだ人、学べる場は限られていた。
田中九一の戦後は、昭和31(1956)年からだった。
関東軍と満鉄調査部第三調査室は「新京会」なるものを設置。
極東シベリアの占領政策立案を含む、スパイ行為を行ったという。
『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』にみられるように、ソビエト・ロシアを知る者ほどひどい目に会わされた。
参考
『東京帝国大学要覧従大正10年至大正11年』(東京帝国大学1922年)
『マルクス=エンゲルス全集別巻』(改造社1933年)
『ポケツト会社職員録 昭和10年版』(ダイヤモンド社1935年)
『社員録』(南満洲鉄道)昭和12年9月1日現在、昭和15年7月1日現在
『満鉄と調査』(満鉄調査部1940年)
『満洲紳士録』第3版(満蒙資料協会1940年)
『会員機関組織要覧』(全国経済調査機関聯合会1942年)
『満鉄会報』(満鉄会)第7号(1956年10月25日)
「満鉄調査部関係者に聞く 20」『アジア経済』(アジア経済研究所)1987年9月号(『満鉄調査部』(アジア経済研究所1996年)所載)
辺見じゅん『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』(文芸春秋1989年、同1992年)
梅田俊英「社会思想社の一側面」『大原社会問題研究所雑誌』第479号(1998年10月)、第481号(1998年12月)
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