松岡均平(1876-1960)は、元徳島藩士で司法官僚、教育者だった松岡康毅の長男として、東京で生まれた。
明治33(1900)年東京帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。
明治36(1903)年東京帝国大学法科大学助教授を命じられ、その翌年から明治42(1909)年までヨーロッパ留学。
一時帰国をはさんで、異例の長期にわたる留学は、南満洲鉄道株式会社の創立にあたり、会社から大学に教授の援助を求められたためだった。
おもに東亜経済調査局で働く人材のあっせん(市川代治)や洋書の購入に関わった。
明治43(1910)年法学博士。
帰国後は大学で経済学を教えながら、東亜経済調査局の指導者として働いた。
東亜経済調査局にいた外国人指導者が帰国後、『経済資料』(1915年創刊)、『世界製鉄業』(1919-1922年)の出版にたずさわった。
松岡均平個人で、または共著で出版した図書、論文集や雑誌に掲載された論文記事が約80件確認できるが、その多くが1910年代に書かれた。
東京帝国大学と東亜経済調査局、ふたつの情報源を利用しつくし、書きに書いたという感じだろうか。
固い内容の『国家学会雑誌』『法学協会雑誌』にも書けば、大衆向けの『新日本』(博文館)『雄弁』(大日本雄弁会講談社)にも書いた。
「ドイツ語は驚くべきほど上手だった」(大内兵衛)という証言があるように、著作や記事の内容もドイツの法制や人物評があり、交通政策にも多く紙数を費やしている。
大正8(1919)年大学と会社を辞めると、協調会に一時席を置いたあと、三菱合資会社に移った。
そこでは三菱経済研究所の前身にあたる組織(資料課、1922年)を、東亜経済調査局にいた佐倉重夫、バウムフェルドとともに立ち上げた。
「他の者が手をつけないうちに、問題を提起して研究」するような事務指導を行ったという証言がある。
三菱経済研究所では理事、評議員を戦後しばらく務めた。
大正12(1923)年関東大震災で死亡した父から爵位を引き継ぎ、男爵になる。
翌年には貴族院議員に補欠当選。
学識経験者とみなされ、各種政府委員を引き受けることが多かった。
第一次大戦後の経済調査会(1916年)、後藤新平委員長の拓殖調査会(1917年)、第2回ILO国際労働総会政府代表(1920年、内田嘉吉と)、商工省臨時産業合理局顧問(1930年)。
長女純子(三島純)はボーイスカウト運動で有名な三島通陽子爵と結婚し、ガールスカウトのさきがけ(日本女子補導団)に関わったことで知られる。
参考文献
『官報』明治33年7月11日、明治42年5月19日、明治43年11月28日、大正13年6月10日
『東京大学経済学部五十年史』(東京大学1976年)
戦前期官僚制研究会『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』(東京大学出版会1981年)
『三菱経済研究所六十年史』(三菱経済研究所1981年)
『東京大学百年史 部局史』(東京大学1986-1987年)
『大正ニュース事典 大正6年-大正7年』(毎日コミュニケーションズ1987年)
『大正ニュース事典 大正8年-大正9年』(毎日コミュニケーションズ1987年)
『旧華族家系大成』(霞会館1996年)
松岡均平とその家族
出典、大山卯次郎(1870-1939)『松岡康毅先生伝』(大山卯次郎1934年)
松岡均平著作目録稿
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