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  • 乙原李成/Otohara Risei

伝記作家としての徳富蘇峰(『吉田松陰』を読む)(2024/1/27)


徳富蘇峰(1863-1957)は熊本藩士の嫡子として、現在の熊本県水俣市に育った。本名、猪一郎。

幼少期から四書五経になじみ、維新に至り熊本洋学校入学、熊本バンドに参加。

明治9(1876)年京都の同志社に移り受洗。その中退後は東京に出て、自由民権運動を目の当たりにした。

明治15(1882)年郷里に戻り私塾を経営、原書から西洋思想を学ぶ。

明治15(1882)年処女作『将来之日本』(経済雑誌社)を、本名で出版。

明治20(1887)年雑誌『国民之友』(民友社)、その3年後に『国民新聞』(国民新聞社)を創刊。

日清戦争を従軍記者として取材、三国干渉に衝撃をうけ外遊。

明治30(1897)年内務省参事官に就任し、それまでの政府批判からの変節を攻撃される。

桂内閣、寺内内閣に関与し、明治44(1911)年貴族院勅撰議員に任ぜられる。

その立場を利用して、弟徳富蘆花からの、大逆事件関係者への減刑嘆願を取り次いだとされる。

大正7(1918)年よりライフワーク、『近世日本国民史』を執筆開始。

織豊期から西南戦争に至る全100巻の通史は、徳富蘇峰の名がギネスブックに登録される要因になった。

昭和20(1945)年A級戦犯指名。(のち不起訴。)

昭和32(1957)年腎臓を患い死去、霊南坂教会にて葬儀が執り行われた。

松岡正剛が、「そもそも徳富蘇峰とは何者なのか。キリスト者? 熊本の若き傑物? 

平民主義者? それとも国民主義者? あるいは度し難い国家主義者? 

いやいや単なる皇室中心主義者? 大ジャーナリスト? 文章報国の人?」

と記すように、ひと口では捉えがたい人物だった。

『吉田松陰』は明治25(1892)年『国民之友』の連載を、翌年単行本として出版。

版を重ね、岩波文庫にも収録。無料公開の青空文庫でも活字化されているため、アクセスしやすい。

その一方、大時代的な美文調の文体と、前置きの長さに閉口させられる。

「玉川に遊ぶ者は、路みち世田が谷村を経ん。

東京城の西、青山街道を行く里余、平岡いいとして起伏し、碧蕪疎林その間を点綴し、鶏犬の声相聞う。

街道より迂折する数百歩、忽茅葺かやぶきの小祠堂あり、

ああこれ吉田松陰の幽魂を祭る処。」(第一 誰ぞ、吉田松陰)

ブログ管理人は世田谷区に生まれ育ったため、松陰神社や、そのそばのボロ市通りには土地勘がある。

全20章、初版原本340ページのうち、第3章から第7章、約100ページに出生地、長州藩の来歴と人物紹介に充てている。

存命中だった勝海舟、横井小楠の親類に取材。

文書、手紙の文言を本文に引用しているのも、紙数を費やす一因となっている。

1805年「伊太利」出身の「マヂニー」なる人物との比較が試みられているが、これはマッツィーニ(1805-1872)のこと。

松下村塾と青年イタリアとの対比、吉田松陰に影響を与えた、横井小楠の思想がマッツィーニに近いことを論じている。

類書に西郷隆盛(号、南洲)、大久保利通(号、甲東)、木戸孝允(号、松菊)の伝記がある。

いずれも『近世日本国民史』と並行した、関係者の依頼による講演、執筆である。

参考

青空文庫『吉田松陰』(2024年1月26日閲覧)

松岡正剛の千夜千冊885夜『維新への胎動』(2024年1月26日閲覧)



(肖像)『蘇峰自伝』(中央公論社1935年)

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