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ベーレンドとハック(2023/8/5)

乙原李成/Otohara Risei

ウィードフェルドの後任として東亜経済調査局を指導したのが、マルティン・ベーレンド(Martin Eduard Theodor Behrend, 1865-1926)。

そして同時期に助手として、フリードリヒ・ハック(Friedrich Hack, 1887-1949)が採用された。

前者は東プロイセン、ケーニヒスベルク出身。ライプツィヒ、ゲッティンゲン、ハイデルベルクで学び、1896年マグデブルクの商人組合に関する論文で博士号を取得。商業学に関する著作を出したあと、マンハイム商科大学学長。1913年来日。南満洲鉄道株式会社で働くとともに、E.レーマンのあとを継いでドイツ東洋文化研究協会(OAG)の代表者(Erster Vorsitzender)になった。第一次世界大戦開戦により帰国。マンハイム商科大学にもどり、1923年から1925年のドイツ経済が厳しい時期に再び学長を務めた。

後者は南ドイツ、フライブルク出身。現地にて博士号取得後に来日。南満洲鉄道株式会社で働くとともに、ドイツ東洋文化研究協会(OAG)でも司書として働き、1913年当時の日本の植民地に関するレポートを執筆。第一次世界大戦開戦により出征、中国の青島で日本の捕虜になった。その後ドイツと日本海軍とで物資を売買する貿易会社を経営。昭和11(1936)年日本・ドイツ合作映画『新しき土』製作時に再来日し、日独防共協定の成立に関与。ナチス・ドイツ内部の権力闘争に巻きこまれてスイスに亡命。のちにアメリカ戦略情報局(OSS)のエージェント(OSS code no.673(Petersen,1996.))として、第二次世界大戦の終戦工作に関わったことで知られる。

大正3(1914)年当時、東亜経済調査局にはベーレンド、ハックとバウムフェルドの3人の外国人がいて、年間予算5万円のうちベーレンドが1万8千円、あとの2人があわせて8千円の年俸を得ていたとされるが、ベーレンドは南満洲鉄道のために『港湾労働者問題』というレポートを1本書いただけ。OAGにも短期間いただけで、目立った活躍はできなかったようである。


参考

OAG mitteilungen, Band 16(2023年8月4日閲覧)


Landesarchiv Baden-Württemberg Biografien(2023年8月4日閲覧)


『図書館雑誌』(日本図書館協会)第22号:1914年11月


Neal H.Petersen:From Hitler's doorstep.Pennsylvania state university press,1996.(個人蔵)


中田整一『ドクター・ハック』(平凡社2015年)


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