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  • 乙原李成/Otohara Risei

ウィードフェルドの赤い糸(2023/7/15)

更新日:2023年7月16日

ウィードフェルド(Otto Wiedfeldt,1871-1926)はドイツ北東部、ザクセン=アンハルト州チュリッツ(Thüritz)に生まれた。

カール・チースと同じ、ザルツベーデルのギムナジウムに学び、ベルリン大学で共にシュモラー(Gustav von Schmoller,1838-1917)に学んだとされる。(Schröder1981)

エッセンとドレスデンで統計業務にたずさわったのち、エッセン市助役就任。

1909年からドイツ帝国内務省参事官(Geheimrat)を命じられ、帝国保険法の制定に関わった。

1911年カール・チースの推薦により来日し、東亜経済調査局の指導を引き継いだ。

この時期に作成した調査報告書の多くが、『朝鮮ニ関スル東亜経済調査局報告』(朝鮮総督府)に再録されている。

台湾に5週間滞在し、少数民族について旧慣調査を補足する報告を、ドイツ東洋文化研究協会の紀要に発表した。(2003年『台湾原住民研究』第7号に訳出。)

1913年帰国し、復職。

1918年から世界有数の軍需企業、クルップの取締役(Direktor)に就任。

ブレスト=リトフスク条約締結後のウクライナに派遣されたこともあった。(Schröder1981)

ドイツ経済が混乱した1922年から1924年まで、ワイマール共和国のアメリカ大使に任命された。

なお、ウィードフェルドの表記はヴィートフェルト、ウヰードフェルトやウヰードフェルドがあり、役職のゲハイムラートを名前としたものもあり、注意を要する。


参考


OAG Personen Otto Carl Ludwig Wiedfeldt(2023/7/14閲覧)

https://oag.jp/people/otto-carl-ludwig-wiedfeldt/


「東亜経済調査局の新顧問」『朝日新聞』1911年5月22日

「満鉄の新顧問」『東洋協会会報』(東洋協会)第196号(1911年6月)

「満洲鉄調査局の新顧問」『工業雑誌』(工業雑誌社)第34巻第461号(1911年6月10日)

「南満洲鉄道株式会社従事員独逸帝国内務省参事官カール、オットー、ルードウイヒ、ウイードフエルト解任ノ件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A04010261000、公文雑纂・大正二年・第一巻・内閣一・内閣一・拓殖局・鉄道院(国立公文書館)(2023/7/14閲覧)

Ernst Schröder:Otto Wiedfeldt.2.Aufl. (Schmidt, 1981.)(個人蔵、著者はクルップの文書館に長く勤務した。)

ウィリアム・マンチェスター『クルップの歴史 上・下』(フジ出版社1982年)

Deutsche biographische Enzyklopädie.Band.10(K.G. Saur,1999.)

『台湾原住民研究』(風響社)第7号(2003年)



ウィードフェルドとその家族(左から息子、妻、本人)(個人蔵)

1922年ごろHarris and Ewingスタジオ撮影

Newspaper Enterprise Association (NEA)旧蔵

Library of Congress所蔵情報(ガラス乾板)

https://www.loc.gov/pictures/item/2016886693/(2023/7/14閲覧)



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