大宅壮一に師事した草柳大蔵『実録満鉄調査部』(朝日新聞社)という労作はよく読まれたようで、ヤフオクや神保町の均一台に単行本や文庫を見かける。
大宅壮一文庫所蔵の雑誌記事や取材に基づいた執筆活動は、著者いわく「櫛風沐雨の旅」だったという。
この本はいわゆる「満鉄調査部」ブームの火付け役になり、関係者、研究者による出版物が平成の世まで続いた。
よく知られてるように、後藤新平(1857-1929)は医師から内務省勤務、台湾総督府民政長官を経て、南満洲鉄道株式会社(満鉄)初代総裁を命じられた。
鉄道院総裁、東京市長、復興院総裁というその後の職歴まで見ると、いまでいうイノベーション"innovation"に長けた政治家だったといえる。
満鉄本社が清朝、帝政ロシア影響下の大連へ移った直後、「本社事務規程」(明治40年4月23日示達第1号)を定め、総務部の次に調査部、そして運輸部、鉱業部、地方部を置いた。
建制順だけ見ても、調査に重きを置いたことがわかる。
麻布区狸穴の川村純義邸を購入して用いた東京支社に、明治41(1908)年東亜経済調査局(東亜経調)が設置された。
「参考ト為ルベキ世界的経済材料ヲ蒐集シ」「経済状態ヲ明ニシ意思ノ疎通ヲ図ル」(『南満洲鉄道株式会社十年史』)目的があった。
このとき参考にしたのは、1863年創業のクレディ・リヨネ«Crédit Lyonnais»にあった調査部門。
パリにおかれ、百科事典、雑誌、新聞、統計類を購入して分類整理し、株式相場や債券市場、運輸業、銀行業、鉱工業を調査した。
もちろんそのための職員や経費が十分に割り当てられた。
一方で、それにならった新聞切抜やカード・システムなど利用する人がいなかった、という満鉄関係者からの批判もある。
なお、東亜経調設置から満鉄最初の社史まで10年経過し、社史発行の時点で、当初の局員はほぼいなくなっていた。
ここから、局員の経歴を、東亜経調の蔵書構築や調査出版活動とからめて紹介していく。
参考文献
「大企業と経済調査機関」『経済資料』(東亜経済調査局)第1巻第3号
「巴里クレディ・リヲネー銀行経済調査局」『経済資料』(東亜経済調査局)第2巻第4号
『南満洲鉄道株式会社十年史』(1919年、原書房1974年複製)
草柳大蔵『実録満鉄調査部』上・下(朝日新聞社1979年、朝日文庫1983年)
石堂清倫ほか『十五年戦争と満鉄調査部』(原書房1986年)
吉原努「満鉄本の話」『国立国会図書館月報』2018年5月号
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